「機嫌良さそうね。こんな水気のある屋上で」
 火曜日。今日は先にやって来ていた厚志と、ところどころ排水し切れていない屋上の様子とを見て、奈央は彼の感情を評した。
「屋上の様子には同意。機嫌については、今日は目覚めが良かったから」
「へえ、普段は寝起き悪いんだ?」
 奈央は腰を下ろさず立っている厚志の側まで歩み寄り、濡れたコンクリの上に用務員の方がきっちり被せたらしい湿りの残るシートの上に、彼女がいつも使っているレジャーシートを敷いた。
「うん。かと言って荒れてる感じでも二度寝がしたいわけでもないんだ。どうも、単に覚醒が鈍い体質らしい」
「つまりボーっとしてるわけね」
 納得と奈央は頷き、レジャーシートに腰を下ろす。
「まあそういうこと」
 厚志も、手で着座を促され彼女の対面に腰を落ち着かせた。
 二人とも昼食の包みを解き、蓋を開ける。その気が無くとも自然と互いの弁当が眼に入った。
 奈央の方は、出汁牧玉子にレタスとスライストマト。少量のナポリタン。そして、弁当箱の半分を取っているご飯の上にはナイフで切られたトンカツが鎮座していた。トンカツ弁当だ。タレがご飯に流れ薄く色が付いている様子が食欲を一層そそる。見事な出来栄えだった。
 厚志のものは昨日と変わりない―――何てことは何故か無く、ピーマンと牛肉の甘辛炒めをメインに、ニンジンとジャガイモを細く切ってのカリカリ炒め。玉子は醤油巻きか。ご飯はおにぎりではなくそのままで、軽く胡麻を振ってある。シンプルだが美味しそうだ。
「メニュー変わってるじゃない」
 昨日聞いた話と違う。思わず奈央は指摘した。
「目覚めが良かっただけじゃなく、早起きでもあったからね。久々に自分で作ってみた」
「親への遠慮はどうしたの?」
「名目は気分転換」
 悪びれず厚志は言った。よく回る舌だ。それが楽しいからいいけれど。
「先輩の手作りお弁当か。見た目はいいけど、味の方も気になるな。少しくれない? 私のトンカツあげるから」
「それは魅力的な提案で。今日のは碑蔵さんが作ったの?」
「ええ。姉さんはカフェテラスで友達と、でなきゃ智樹さん―彼氏と済ますことが多いから」
 高校時代は遥子も弁当作りに参加していたが、所謂付合いというやつだろう。大学に入ってからは智樹と弁当を食べる事が確定していなければ、昼食は大学のカフェテラスだ。安いだけでなく美味しいと云っていた。
 特進クラスの中の何人かが受験する、県外の、一流の上に超が付く、つまり日本一の大学にでも行かない限り奈央もそこを受験する。入学したら行ってみてもいいかもしれない。忌憚がない上舌が肥えている方の遥子が付き合いを優先しているのだから、奈央にとっても美味しいのだろう。
 奈央は厚志のおかずをそれぞれ少量ずつ弁当の蓋に取った。厚志も奈央の敷き詰められたトンカツ五切れの内から一切れだけ自分のご飯に乗せる。
「はい」
 が、奈央が更にもう一切れ厚志のご飯の上に移住させた。
「これだと僕の貰った量が多すぎると思うけど」
「稀少性の差ってことで。滅多にないんでしょ? 先輩が作るのって」
「まあ、今年度はそうか。じゃあ、遠慮はせずに貰っておくよ」
「ええ。そうしておいて」
 おかずの交換も終了して、いただきますと食物の神様と、今回はトレードしたおかずのコックに手を合わせる。挨拶も終了して、奈央は厚志のおかずから箸を付けることにした。
「――――」
 咀嚼音を響かせず、かといって鈍重な速度でもない速さで牛肉とピーマンの甘辛炒めを嚥下する。
 続いて、ニンジンとジャガイモも口にする。
「美味しい」
 感想を求められたわけではないが、奈央は賛辞の言葉を送った。
 牛肉とピーマンの甘辛炒めは、弁当では難しいタレの絡め方が絶妙だった。タレ自体の調味料の配分も良い。砂糖と醤油の簡単なものだが、変に甘くも、醤油の味が主張されすぎているという事もない。しっかりと甘辛い。
 ニンジンとジャガイモのカリカリ炒めは、塩と胡椒が良く利いており、更に最後、恐らくは油を足して焼き揚げている。見事なものだ。
「それはどうも。けど、残念ながら君のには及ばないね。豚肉への下拵え、衣への調味料の混ぜ方、揚げ加減、ソースのブレンド、絶品だね」
「本当は既製品のブレンドじゃなくて、ドミグラスソースとかも作れるんだけどね。流石に手間が掛かりすぎるからやってない。ウスターソースにケチャップと辛子の配合だけど平気?」
「うちもブレンドするならこれ」
「そっか、よかった」
 奈央は気遣いへの肯定的な言葉に頷き、フレンチドレッシングの掛かったレタスを食む。
「外食とかってあんまり好きじゃない?」
 ふと湧いた疑問に、箸を口に運びながら厚志は訊いた。咀嚼中だった奈央は急いだ様子も無く嚥下する。
「嫌いって事もない。でも、料理するのが好きだからやっぱり外食は少ないかな。それに、家で作れない料理は別として、近所に自分で作るより美味しい店正直言って無いし」
 答え、来るかも知れない厚志の感想を待たず奈央は一口では大きいカツを歯で半分噛み切る。食事の合間の会話はいいものだ。手を止めて会話を全部終えてから取り掛かったのでは黙々としすぎてしまう。二人の意見は綺麗に一致していた。
 ふむ、と厚志は甘辛炒めとご飯を嚥下して質問する。
「中華屋『招来』って行った事ある?」



 華呉井漣一は鍋を振っていた。時刻は午後六時半。満潮時では無いが、チラホラと夕食目当ての客が訪れる時間帯だった。
「玄武三、炒飯二上がりっ」
 手近のフロアスタッフに出来上がりを告げる。
「はい。三龍炒飯二、出ます」
 指示された女性スタッフは漣一よりひとつ年下だった。身長は平均よりやや低いが、出るところは出て引っ込むところは引っ込んでいる肉感的なスタイルが、野暮ったい割烹着の上からでも確認出来た。一年少し前からバイトで入っており、危なっかしく見えて手際良く作業をこなす女性だった。来店する、漣一の高校時代の友人達の憧れの的なのだが、残念ながら彼氏持ちだ。谷茂たにしげ智樹ともきという、彼女と同い年の青年だった。自分の弟分の厚志の牙が全て抜けたらこうなるだろうなというのが、漣一から見た智樹の印象だった。
「そろそろか」
 来店した客の注文が収まりを付いた手持ち無沙汰の状態が影響したのか、思考が外に漏れ出た。慣例なら夕食時の本格的に混む時間帯一歩手前の今頃にやって来る筈だ。少なくとも普段、日曜日に食べに来る場合はそうなっていた。
 中華屋『招来』はかなり流行っている。創業して百年、料理長が家系以外になった事は何度かあるが、営業難に見舞われた事は漣一が生まれる半世紀近く前の、第二次世界大戦時ぐらいのものだ。そういう意味では、この『招来』は戦争に縁がある。何しろ創業した切欠は、日清戦争で何人も人を殺し、自分は地獄に落ちるだろうと思っていた漣一の曾々々祖父が、死に掛けたが幸運にも救助された際に、神様を見たのだと言う。その神が、
『汝鍋とお玉を取れ。さすれば罪は贖えん』
 と言ったのだそうだ。その後退役し修行を積み、独立し『招来』を創業。嘘臭い話だが、流行っているのだから曾々々祖父も本望だろう。
 手慰みにお玉をくるくると回す漣一。焦れても仕方ない。不測の事態の備えの為に正規社員の厨房スタッフは二人雇われている。そして料理長の父と、母。アルバイターも数に数えれば厨房スタッフだけで五人。漣一が少し抜けるぐらい問題無い。
「いらっしゃいま、せー」
「いらっしゃいませー」
 客が入って来たらしく、フロアスタッフの声が発見者、追随者と来店を歓迎する。しかし、発見者の声がおかしい。
「「「「「いらっしゃいませー」」」」」
 厨房スタッフも異口同音に出迎える。
「って、おお。やっと来たか」
「なんだあっちゃんじゃねえか」
「久し振りねぇ」
 華呉井の姓を持つ者だけ、硝子越しに来店者を認識後軽く手を上げたりしながら声を掛ける。正規社員の二人も厚志のことは知っており、声こそ出さないが目礼する。
「どうも。お久しぶりです、おじさん、おばさん。田中さん佐藤さん、北川さんと沖村さんも。約束通り来たよ、漣兄」
「おう。ま、取り敢えず注文しろや。食ってくんだろ」
「うん」
 厚志は頷き、座敷ではなくカウンターに腰を下ろす。そして、一緒に入って来た同年代の女性も隣に座った。
「ん? お譲ちゃん―――」
 その女性は視界に入っていただろうが、着席位置が予想外だったらしく漣一の父、明俊が言った。
「もしかしてあっちゃんの彼女かい?」
「違います」
 一緒に入って来た女性は清水の様な清々しさで否定した。
「敢えて言うなら友人ですね。あ、私碑蔵奈央です」

「そうかい。ま、友達でもいいやな。あっちゃんが新しい友達、しかも女の子連れてくるなんて柚夏ゆずかちゃん以来だ」
「そうなんですか」
 礼儀正しく敬語で話す奈央の横で、厚志は給仕さんから水とお絞りを受け取り、奈央の方に一つ滑らせた。
「ありがと」
 注文が入る事もあって明俊は会話を止めた。基本頑固親父系なのだが、厚志を猫可愛がりしている節がある。自分の息子の様にとは付けない。漣一には厳しいのだ。
「ご注文はお決まりですか?」
 事務的な言葉のだが、友愛を感じさせる声質が振ってくる。
「何て、似合わないか。久し振り、大蛇耶君。漣一さん達が言っていた『あつし』って君の事だったんだね」
「覚えていてくれて光栄です、先輩」
「姉さんのバイト先ってここだったのね」
「その通り、懐かしい後輩と、ちゃっかり一緒に食事をしに来た妹と鉢合わせ。今この瞬間の為にここでバイトしていた気がするわ。―――というか奈央、あたしのバイト先言わなかったっけ?」
 初耳と言わんばかりの奈央の科白に、遥子は思わずキョトンとする。
「読み方間違ってる。ここは『まねき』じゃなくて『しょうらい』」
 奈央は呆れた様に指摘する。硝子越しに漣一が表情を歪めた。
「バイト先の名前ぐらい覚えとけ遥子」
「あ、あははははははは。……ごめんなさい漣一さん。次から間違えないから許して、ね?」
 しなを作るような媚びた謝り方だが、同時に誠実さも兼ね備えている。ダブルパンチとは器用なものだ。
「そうか。ま、いいけどな」
 漣一も別に怒っていたわけではない。頭が痛かっただけだ。
「取り敢えずオーダー取ってくれ。雑談はその後に。いいよな、親父?」
「ああ、構わんさ。寧ろ私も参加する」
「あら、あなたが参加するなら私もよ」
 本気で言っている明俊に、茶化す様に言うその妻、日向。
「じゃあ取り敢えず、何頼む?」
 接客の口調ではないが、この店自体、常連に事務的な言葉を掛ける事は少ない。カウンター席ともなれば尚更に。
「いつもは漣兄の気分で決めてもらってたけど、今日は炒飯とチャーシュー麺で」
「私もそれで」
「炒飯二、チャーシュー麺二ね?
 ―――注文! 朱雀五六、炒飯二、チャーシュー麺二でーす!」
 遥子は確認を取り、声高に内容を読み上げた。

 料理中の暇潰し話は、厚志の友人であり、遥子の妹である新顔の奈央に話題は集中した。
遥子は明俊の許可を得て割烹着を脱いでカウンターに座っていた。バイトとはいえアットホームな事だ。給料は分引きだが。注文も追加で、伝票は『朱雀四五六七、炒飯四、チャーシュー麺四』になっている。夕飯を済ますつもりだ。内容を見れば分かるが漣一も同席予定である。
「お待たせ」
「お待たせしました」
 四分後、漣一の母日向と、北川と呼ばれていたバイトのフロアスタッフがお盆を一つずつ、注文全てを持って来た。漣一も割烹着を壁に掛け参上する。
「待たせたか?」
「いや。全然。相変わらず器用だね、炒め物と短時間茹で物を同時にこなすなんて。しかも味が落ちない」
「疲れる上、腕のいい仲間がいてくれるから、通常業務じゃ必要ないがな。しかし、お前みたいな客相手へのお披露目の場では役に立つ」
 漣一はいそいそと席に座り、割り箸を手に取り、中盆に載せる。
 決めていたわけではないが、全員行儀はいいようで、自然に両手を合わせた。
「「「「いただきます」」」」
 割り箸を割る。四人とも思い思いに食べ始めた。
 スープは醤油ベースの鶏ガラスープ。様々な独自の技術が加えられており、深みがありながら重たくない。チャーシューの豚は勿論焼き加減も絶品だ。若干茹でる事を前提なチャーシューは簡単に噛み切れる柔らかさだった。麺は通常の太さで、コシがあり、更に隠し味に魚介類系のスープで練りこんでいる。メンマも、モヤシも歯触りがいい。コーンもスープのアクセントとして役割を立派に果たしている。
「ん~~、美味しい」
 身体を震わせ食の感動に身を震わせる遥子。その様がこのチャーシュー麺の全てを物語っていた。
 当然ながら炒飯も絶品だった。単純なものこそ腕の差が出る。焼き加減も味付けも並大抵ではない。油の使用量も少ないだろう。更に特筆すべきは、四人前を一度で作ったことだ。炒飯の四人前はプロでも難しい。それを無精卵を割れば黄身と白身が出るぐらい自然にやってのけた。
「何で食べに来たことなかったんだろ……」
 奈央は過去の自分の行いに後悔したと呟いた。自宅から反対側とはいえ家族で食べに来るには大した距離ではない。味だって古く続いている以上確かである事は想像が付いた筈だ。客層だって今店にいる人だけ見れば、外仕事をやっていそうな人達の座っている席もあれば、家族ぐるみでやって来ている席もある。
 ではなぜかと問われれば、知らなかったと答えるしかない。同じ市内の有名店であるにも拘らず、この招来の存在を。無知は罪とはよく言ったものだ。姉と、ひいては碑蔵の血はしっかりと引いていたらしい。間が抜けている。
「気に入ったみたいだね」
「ええ。ちょっと自己嫌悪するぐらいに」
「そいつは良かった。ま、贔屓にしてやってくれ」
 談笑。明俊も日向も、社員もアルバイターも、満足そうだった。

「ごちそうさま」
 一番ペースの遅かった遥子まで食べ終え、四人の食事は終了した。遥子は腕を頭の上で組み、背を伸ばす。仕草だけ見れば子供だが、充分大人びた容姿の奈央よりも大きな胸が強調される。
「さて、仕事の続き―――の前に、ちょっと厚志借りて行くぜ」
「ああ、部屋に置いてあるの?」
「厨房じゃ油分で傷むかもしれないだろ」
「違いない」
 主語を抜いた会話で、奈央と遥子にはイマイチ要点が掴めない。
「厚志君だけに用?」
 談笑中、自分の事を名前で呼ぶよう言い、そして厚志の事を名前で呼ぶようになった遥子が尋ねる。
「まあ、一人の方が都合いいのは確かだな。奈央ちゃんどうする? しっかりしてそうだけど、一応送り手いたほうがいいんじゃねえ?」
 漣一の的確な人物評価。低い確率の不幸に襲われても、奈央なら自力で切り抜けそうだという。
「送ってくれるのがバイクなら、乗ってみたい」
 鳳仙の高校生には不似合いなⅤツインマグナ。興味はあった。
「じゃ、ちょっと待ってて」
「うん」
 奈央は頷き、漣一と厚志が連れ立って店ではない二階に上がるのを見送った。
「ふふふふふ」
「何?」
 意地の悪そうな笑いに、奈央は臆す事無く強く続きを促す。
「『うん』だって。妹が素直でお姉ちゃん、大変嬉しいよ」
「……何それ。ただの相槌の一つでしょ」
 心底呆れたと、奈央は嘆息吐いた。
「『うん』っていうのがポイントなの。『ええ』でも『そう』でもなく、『うん』なのが。奈央の性格上、相当気を許さないとありえないと思うんだけど?」
「ええ。気は許してるよ。少なくとも予想よりずっと」
 学校での暇潰し程度のつもりだったのが、日曜日には行き付けの本屋で遭遇、今日は一緒に夕食まで食べに来ている。想像や予定とは違う。先日遥子に言ったエンターテイナーの枠は充分踏み出している。世辞でも何でもなく、明俊に言った『友人』は事実だった。
 奈央の感想に、遥子は煽り顔もからかい顔も引っ込めて不満顔になった。
「……訂正。奈央が『…うんっ』とか言う相手は甘えたい相手だけ」
「そんな媚びた言い方なんてしてないっ」
「仲がいいなぁ二人とも」
 硝子一枚越しで丸聞こえだった明俊が、調理の手が空いたらしく会話に参加してきた。漣一もそうだが、彼も調理中は無言を好む人間のようだ。
「あ、そうそう。明俊さんに一つ聞きたかったんですよ~」
 遥子が企み事をした顔で明るく言う。質問先が明俊になっても奈央は油断無く、遥子の口から飛び出る爆弾に備えた。
「厚志君が連れてきた、ゆずかって誰ですか?」
 馴染みのない、果実の漢字を含んだ名前。明俊が感慨深そうに厚志の友人歴を語った、彼の前に連れてきた女性の名前である事を思い出すのは、奈央にとって難しい事ではなかった。
「ああ、柚夏ちゃんか。あっちゃんの従妹だよ。隣町に住んでいて今中学三年だったかな。春夏冬休みに泊まりに来たり、あっちゃんが泊まりに行ったりね。柚夏ちゃんが小学四年に上がった頃から泊まりに来る事はなくなったけど、今でもたまに来てくれるし、遊んでる筈だよ。漣一が仕事抜けるからね」
「漣一さんがたまに抜けるのって、そういう理由があったんだ」
「あいつにしては珍しく、はっきりとは言わないけどな。あっちゃんに訊いても教えてくれないし。元気で明るい子だから、悪い事はしてないと思うんだけど」
 奈央は話題の矛先が自分に向く方向性が大凡読めたので、警戒を緩めることにした。
「だってさ。どう思う? 奈央?」
 やはりだ。予想より内容が柔らかいのは従妹と聞いたからだろうか。奈央は特に問題性も感じず、素直な感想を口にした。
「いいなんじゃない? 会ってもいいぐらいには好意的な人物だと思う」
「……ま、大して期待しても無かったけどさ」
 大きな落胆も見せず、遥子は表情を正す。
「奈央ちゃんもいい娘ね。遥子ちゃんも。変な物言いで悪いけれど、厚志ちゃんと仲良くしてあげてね」
 やはり話を聞いていた日向がおっとり声で言った。その声質と同様、彼女の正確が垣間見える言葉だった。
「言われなくても、そうするつもりです」
 奈央は諒解と共に、目礼した。両手を挙げ降参のポーズを取る遥子。
「むぅ。日向さんには敵わないなぁ」
「人の親だからかしらねぇ」
 日向がたおやかな微笑を浮かべている内に、漣一と厚志が戻って来た。
「待たせたな」
「お待たせ。じゃあ帰ろうか。会計は漣兄が奢ってくれるってさ」
「ああ。厚志に誘われてのお披露目会みたいなもんだったからな。次からは払わせるぜ」
「ごちそうさま漣一、さん」
「贔屓にしてくれよ」
 遥子は賄代わり、奈央も物怖じする性格では無い。漣一の純然な好意を遠慮せずありがたく受け取る。
 漣一の歓待を約束する弁を合図に、奈央は退店しようと厚志の先に立って歩き出す。歩調は軽い。タンデムシートとはいえ初めて乗るバイクにも期待があった。
 携帯が鳴った。奈央の知らない曲だった。
「その着信、柚夏からか」
「うん。二度目で悪いけど、少し待ってて」
 厚志は奈央にそう言って、声が聞こえない程度の距離まで離れた。
「気になる?」
 遥子が意地の悪い顔で言った。
「少しね。紹介する気がないらしいのは残念」
 奈央は簡潔に答えた。

「もしもし」
 常の包容力がある声質より、もう一段柔らかい声で、厚志は送信確認の挨拶をした。
「やっほー、あーくん。チケット届いた?」
 出た声は溌刺とした、よく知ったソプラノの声だった。
「うん。届いた。気を遣わせたみたいだね」
「伯母さん達が中身は見ないって信用してるけど、時期が時期だから今回は念の為。来れそう?」
「勿論。最優先順位だよ。軽い風邪ぐらなら出て行く。インフルエンザだと諦めるけど」
 単なる遊びの誘いは蹴る。万が一知り合いに訃報が出ても、自分が行って助かるものでもないので柚夏を優先する。今正にピンチと言う連絡なら別だが、生憎生き死にに関わる環境で生きている友人は、自分一人で何とかするだろう。それとは別に、約二名、喧嘩が得意な人間は知り合いにいるが、二人とも箆棒に強い上、一人は足を洗っている。もう一人の方は死んでも自分に連絡は寄越さないだろう。
「嬉しいな。でも無理は駄目だよ、あーくん」
 言い聞かせるというよりは、幼い子どもの様に文末に名前を付ける。
「無茶は出来ること」
「すぐそういう屁理屈捏ねる」
 柚夏はクスクスと可愛く笑う。漣一含め、三人には十年来の信頼関係があった。その相手が穏やかな声で平気だと言うのだ。信用しない筈がない。
「迎えに行く時間はいつも通りでいい?」
「うん、漣一兄さんの家でラーメン食べたいし」
「それじゃあその予定で。また日曜日に」
「うん。運が良かったらその前にもしかしたら会えるかもしれないけど」
 予定を確認しあって、通信は終わった。



「プハッ」
 思わずそんな息を吐きながら、奈央はヘルメットを脱いだ。
 時刻は七時過ぎ。両親が帰っている可能性も考慮して自宅から百メートルほど離れた場所にバイクを止めてもらう。厚志はキーを捻り、スタンドまで立てて完全に停車させる。
 初めて乗ったバイクは中々に有意義だった。車と違い、抜き身の体は風が流れているのをはっきりと感じ、法廷速度を守っていてもヘルメット越しに風切り音が届いていた。新鮮な楽しさ。慣れない感覚に、パッセンジャーの事を考慮されたタンデムと運転だったにも拘らず何度か厚志に身体を寄せてしまったりもしたが、悪い気分ではなかった。
「ありがと。面白かったよ。先輩もいい思いできたんじゃない?」
 ヘルメットを渡しながら、失念していた茶化しを今更に行う。
「満喫させていただきました、と云えば満足かな?」
「結構平然としてるのね。以前まえは慌ててたのに」
「合意の上の不可抗力にまで申し訳なさを覚えるほど卑小じゃないからね」
 厚志の言う事は尤もだった。奈央も大凡予想していたが厚志は初心な訳ではない。不合意状態での性的接点を避けているのだ。
「それでこそ先輩ね」
 その方が好ましい。厚志の方が気にしないのなら奈央も意識しないで済む。
 奈央はそれなりに羞恥心がある方だ。不可抗力や偶然の発生の事態での、性的観点による茶化しやからかいは、精神的に自分を優位に置く為―早い話が照れ隠しだ。進んでそんな状態を起こしたいとは思わない。
「取り敢えず褒められたと思っておく」
「褒めてる褒めてる」
 奈央はカーディガンのポケットから携帯電話を取り出した。
「電話番号とメールアドレス、登録しておかない?」
 自然と提言していた。厚志は一瞬凄く意外そうな顔をしたが、心地良さそうに微笑した。
「いいね。じゃあ番号言って。僕の方から送るから」
「分かった。えっと―――」
 奈央は為携帯電話のアドレス帳を見ながら数字とアルファベットを一つ一つ正確に発音し、厚志がプッシュする電子音が後を追った。
「掛けるよ」
 電話番号とメールアドレスの二つを登録し終わり、厚志は送信ボタンを押した。二つとも問題なく繋がり、奈央も登録を完了させる。
「じゃあね先輩」
「うん。また明日昼休みに」
 滅多に遣わないであろう連絡先を交換して、二人はそれぞれの帰路に就いた。
 消音改造を施したであろうマフラーから漏れ出るⅤツインのエンジン音が、暫く耳に残った。



 厚志は真っ直ぐ家に帰らず大回りに、小さな山にある、喜ヶ縁神社の石段前を通過するルート。寄り道だった。約束があったわけじゃない。スロープ付になった石段を、今から上る気も無い。期待が無かったといえば嘘になる。だからそういう時に限って、偶然と言うのは起こる様に出来ているのだ。
「傀か?」
「こんばんは、兄さん。いい月夜ですね」
 突然。浮き出た。そんな形容に相応しい人影が、バイクを停めた厚志に掛ける、幼い頃から殆ど変わらない高い声。厚志はヘルメットを脱ぐ。
「そうだね、明るい方が戒めになるとも言うし」
「はい」
 切ったライトの代わりに、天然の明かりに照らされる影の姿。影はこの神社の夫婦の、二人娘の次女、名は波瀬谷はぜたにかい
 闇夜に溶け込む様な黒の上下が肌を覆う。漆黒の髪は前が黒眼に掛かるかどうか、後ろは肩を目処にザンバラ。物心付いてから素人厚志に切ってもらっているのだから仕方がない。整った顔立ちは幼さがある為少年とも少女とも取れる。それは体付きも同じで、服の上からでは細身であるのは分かっても、作りが男であるのか女であるのか判然としない。身長は同年代の平均。少年か少女か。髪の長さと整った顔立ちの分、少女に取る人の方が少し多いだろうか。勿論、厚志は傀が少女である事を知っている。
「兄さんは? うちに御用ですか?」
「いや。友達を家まで送った、その寄り道」
「そうでしたか。家、入ります? 今日は姉さん、体調不良で家にいますよ」
「……やめとく。弱ってる姿は見られたくないだろうし。そっちは?」
 う~んと傀は顎に指先を当て、
「ナンパでも、と思ってました」
「へえ」
「もう、言ってみただけです。でも兄さんが声を掛けてくださいました」
 傀が糸切り歯を見せてくははと笑い、厚志は呆れて白い息を吐く。それに反応し、傀は前髪を撫で、表情を正す。
「最近、深夜の友呼ともよび公園に人がいたのを見た同級生がいたんです。野外プレイには不向きな場所です。屋台も通ってなかった。ですから不審人物と予想して、張ってみようかと」
「あそこは住宅地だから、律も、他の奴等もあまり通らないもんな」
「はい。わたし自身、嫌な予感がしていない事も無いですし」
「そうか。気を付けてね。一応僕も注意することにする。律には?」
 厚志は手伝いを申し出なかった。数が必要な事柄なら兎も角、見晴らしのいいあの公園で待ち伏せするのは自分には荷が勝つ事だと分かっている。
「いえ。言ったら、兄さんが怒るじゃないですか」
 傀がくははと、例の微笑を零す。
「ありがと。それが、律への侮辱なのは分かってるんだけど」
 苦い心を、平静な顔を作って押し留める。そんな厚志に、傀は赤褐色の瞳を伏せ、右膝を付き右手を胸の前に翳す、完璧な礼をして見せた。
「そんな顔を為さらないで下さい。厚志様のやる事は間違っていません。勿論、姉さんも、間違ってるわけではありません。ただ、お互いちょっと、不器用なだけです。自身をお持ちになってください。少なくとも、私には。私は貴方の下僕しもべなのですから」
 言い終え、顔を上げる。厚志はその傀の額を指で弾いた。
「誰が主だ、誰が」
「未だに認めてくれませんね、兄さんは。人鬼の主など、そうなれるものではないのですよ」
 何処まで本気か分からない表情で、傀は弾かれた額を擦った。
「じゃ、僕は帰るから」
「はい。おやすみなさいませ、兄さん」
「ああ。頑張って、傀」
「はい」
 挨拶を交わし、厚志はバイクを走らせる。来た時とは違って、気配を最後まで残して見送ってくれた。
 翌日。傀から入った連絡によると収穫は無かったらしい。根本が無い方が、いい収穫ではあるのだが。
 その後数日も、常はやらない見回りもやっているようだが、収穫はまだ聞かない。








 毎回新キャラ出してるな、俺。まあ、まだプロローグだし。
 ここまでのキャラ総出の展開に、最後に初登場キャラの運ぶ黒雲。Nice.day終了まで後二話。
 毎度の外見紹介。

 波瀬谷はぜたにかい
 性別:女 年齢:14(10/8)・中学二年
 身長:160 体重:48
 3サイズ 76 56 75
 髪:黒(肩でザンバラのセミロング) 瞳:黒・赤褐色(普) 糸切り歯が少し大きい

 傀はお気に入りのキャラ。色々悩みまくった分好き。
 ではまた次週会えますよう。






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