十一月も半ば。ノウンが来てから四度目の日曜日。
 週に一度、二人で街並みを歩くデート。今日はノウンの以前希望していた通り、映画を観る事にした。最近上映が始まって、彰吾が見たいと思った作品。材料が揃った以上、ノウンを誘ったのは必然だった。
 席の隣で、「わあわあ」と騒ぎながらスクリーンを、見上げるノウン。その笑顔が、時間が限り無く有限だと言う事を忘れさせてくれた。


「面白かったね!」
「ああ」
「あのヒロイン、すっごく可愛かったぁ」
「パイロットの主人公も、飛行機一つでよくあそこまで面白く出来たよな」
 映画館を出て、ポルノワで注文を待つ間、映画の話に花を咲かせていた。
「ホント、初めて彰吾と観られた映画が、あれでよかったよ」
 彰吾は照れ隠しに水を飲む。キンキンに冷えていた。
「ありがとう、彰吾」
「誘った時に言ってるだろ。何度も言うな」
「うん。でも、楽しかったから」
 素直に、純粋に自己を表せられるノウン。
「失礼します。お子様ランチのお客様」
「あ、わたし」
 運んで来たお子様ランチを置いて、ウェイトレスさんは戻って行く。お子様ランチを食べてみたいというノウンを、止める術は無かった。まあ、視線が痛いなんていうのは、単に自意識の問題であり己の過剰反応なので、気にしなければいい。
 ハンバーグステーキを、しっかりした手付きで整然と切り分けていくノウン。他のメニューはチキンライス(勿論旗付き)サイズの小さなエビフライ、そしてプリンと、幼い姿形のノウンには妙に似合う。ちなみに、今ノウンは一口サイズにハンバーグステーキを並べているが、切るだけで、食べるのは当然彰吾の分が来てからだ。
「ま、あれだな」
「?」
 ノウンがハンバーグステーキを切り終わるのを待って、彰吾はさっきの会話の続きを発した。
「折角のデートなんだから、偶には気の利いた場所に行きたいもんなんだ」
「失礼します、トンカツ定食お持ちしました」
 ウィトレスさんが、今度は彰吾の頼んだ物を持ってくる。
「ではデザートは食後の頃に持って来ますので」
 ペコと頭を下げて、また戻って行った。トンカツは既に切られているので、彰吾はテーブルに備え付けられている割り箸を取った。割る。
「次の日曜日にでも、遊園地に行ってみるか?」
「え? でも彰吾、遊園地嫌いなんじゃないの?」
「嫌いって程じゃないさ。態々行くような場所でもなかっただけだ」
 カツの端を噛んで、一口分口に入れる。ソースがカツに絡んで舌に美味い。よく噛んで食べ終わった後、残った一口を口に入れた。
「でも、遊園地って、よく考えたら結構お金掛かるよ」
 心配そうに、彰吾の顔を覗き込むノウン。行きたいけど抑えている様な表情。彰吾はそう感じた。
「確かに。けど、父さんと母さん、何を気を利かせたのか、小遣い上げてきたからな」
 ノウンに告白した後、彰吾の家は小遣いを一月分を一度に受け渡す様になっているのだが、次の土曜日の夜、英吾に臨時で五千円の小遣いを渡され、月に一度の小遣いは先月までの倍だった。五千から一万へ。デートの際の食事代も含んでいるだろうとはいえ、中学生の小遣いにしては多い。尤も、ノウンの分も彰吾の持ちだと考えれば、やや多い、といった程度で、彰吾自身の小遣いを平常通りにする為には映画館や遊園地といった場所に行くのは月に一度が限度だろう。しかし毎月行く訳でもあるまい。第一が、毎月五千全部使っている訳でもないのだ。月によっては半額程度も残る。
 そういう事情は、家族は見えていないが実は彰吾の家に住み着いているノウンも知っている。
「じゃあ、クリスマスにしよう? わたし、クリスマスに遊園地に行ってみたい」
 ああ、そうか。ノウンが渋っていたのは、金銭が掛かるというのもあったろうが、この割合も大きかったのだろう。クリスマスは、もう来月。今月行けば、クリスマスには行かない。そう思っていたんだ。
「そうだな。それじゃあ、それまでのお楽しみにするか」
「うん!」


「『ただいま(ー)」』
「お帰りー、彰ちゃん」
 夕食時、迎えてくれたのは得意気な笑顔の沙希だった(デートの日でも、朝食、夕食は家で取るようにしている)母は少女の様な精神の持ち主ではあったが、それは考え方と癖になってしまっている口調であって、こんな見るからに浮かれているのは珍しい。
「母さん? 何かいい事でもあったの?」
「惜しい! いい事はいい事だけど、起こったのは私じゃなくて彰ちゃん、いいえ、彰ちゃんとノウンちゃんかしら」
 訳が分からない。ちなみに、ノウンとはもう会わせてある。髪や眼は、祖父の名残。名前は最近流行っている無理な名前と説明したら、あっさり納得してくれた。何処に住んでいるか聞かれた時は正直焦ったが、何とか誤魔化した。両親がノウンを気に入ってくれたのも、大きかったのだろう。その日、沙希は昼だけでなく、夕食までも引き止めた位だ。彼女の頭の中では、もう娘みたいな感覚なんだろう。最難関だと思われた亜紀も、興味が無かったのか、何も言わなかった。
 中途半端な気分で居ると、沙希はズボンの後ろポケットからじゃーんと二枚の紙を取り出した。いや、只の紙では無い。字だけでなく、CGが描かれている。
「コミューズランド…の、フリーパス」
 彰吾は書かれている、最重要項目を声に出して読んだ。満足というように、沙希は頷く。
「実はね、亜紀ちゃんも出掛けちゃったから私も彰ちゃん達に負けじと英吾さんとデートに行ったの。それで買い物とかしながら歩いてたら、福引をやってたのよ。丁度買い物で券を貰ってたからやってみたら」
「ビックリ」
「そ。一等賞のコミューズランドペアフリーパス引き換え券大当たり! 私と誠二さんで行っても良かったんだけど、日付が今月末までだったのを見て、やっぱり親としては、彰ちゃんに役立てて貰いたいな、って」
 はい、と彰吾の前に差し出されるチケット。つまりは、くれるらしい。
「亜紀は? よかったの?」
「うん。一応、亜紀ちゃんにも、彰ちゃんにあげていい? って聞いたんだけど「うん。あたし、ペアで行くような人居ないし」だって」
 亜紀は家族の贔屓目抜きで外見は綺麗だし、やや素っ気無い物言いをする事もあるが夢の話は真摯だ。本人さえその気なら、彼死の一人や二人簡単に作れるだろう。只、男性に求める最低基準ラインが誠二だというのが、大きなハードルだった。亜紀にとっても、亜紀を好いている男にとっても。誠二を超える男性、超えなくても、亜紀が好きになれる様な男性がいつか現れる事を祈りながらも、話しかける訳には行かない彰吾はノウンに眼配らせした。ノウンは少し考えた後、『行ってみたい』と頷いた。
 彰吾も手を差し出し、フリーパス引き換え券を受け取る。
「ありがとう、母さん。きっとあいつも喜ぶよ」
「だといいわね。ノウンちゃんに、またいつでも来てねって言っておいてね」
「了解」

 食事を摂って、風呂の順番待ちで部屋に戻る。ノウンも食事を摂って一時戻っていた。
「機嫌よさそうだな」
『うん! なんてたって来週は彰吾と遊園地だもんね』
 今から楽しみなのを身体全体で表現するノウン。昼間はああ言っていたが、行きたくて仕方が無かったのだろう。
「クリスマスのは無しにするか?」
『えぇ!? ずるいぃ~! だったら来週の我慢するから、クリスマスー』
「冗談だよ」
 ノウンが取り下げを願う言葉を言う間中、彰吾はクックと喉で笑っていた。
『むぅ~』
 疑わしげに、彰吾を睨み付ける(と言うほど恐ろしいものでは無いが)ノウン。彰吾は近付いて行って、ポンポンと帽子越しにノウンの頭を叩く。
「クリスマスも行こうな」
『…うん!』


 十一月最後の金曜日。朝早く起きて、彰吾は隣のノウンも起こしてやろうと、隣を見た。一見、いつも通りだった。服があのコスプレの様な魔女っ娘風の物だったり(彰吾が買ったのはデートの日だけ大事に着ている)トレードマークの帽子を被っていたり、服が幾らか肌蹴ているのも、普段通りだ。只、表情だけが違う。穏やかな寝顔でなく、何かに耐えている様な、辛そうな顔。上気した肌。息も荒い。
「ノウン、おいっ」
 昨日までより少し強く起こしだす。益々眉を顰めたが、大きく揺すられ続けて寝続けられる事も泣く、十数秒で眼を覚ました。
『しょうご?』
 寝惚けたままに、彰吾の名を呼ぶ。しかしその発音、寝惚けただけではない。熱っぽい。これがベッドの上なら、いや、今もベッドの上なのだがそれとは違う意味で、とまあいい。兎に角、
「お前、熱でもあるんじゃないのか?」
 まだよく頭が働いていないのか、ノウンは彰吾の言葉を否定しない。彰吾が本当に不味いんじゃあるまいかと、ノウンの額に手を伸ばす。
『ん…』
 触れた彰吾の手が冷たかったのだろう。ノウンは気持ち良さそうな声を出す。しかし、彰吾の手は特別冷たい訳ではない。それがどういう事かというと。
「…やっぱり熱あるな」
 熱い。熱くて熱い。彰吾が手を離して、ノウンも甘える様に閉じていた眼を開ける。
『ないよ~…』
 発音のおかしい声。死神が風邪を引くかどうかは知らないが、体調が悪いのは間違いあるまい。
「あのなぁ」
『うぅ~…がっこーいくぅ』
 ふらふらとベッドから起き上がろうとして、バタンとあらぬ方向に倒れそうになったのを彰吾が手を出して支える。
「無茶言うな」
 こんな状態で来られたら気が気じゃない。彰吾はノウンをベッドに寝かし直して、布団も上から掛けた。抵抗は少なかった。しないのか、出来ないのか。多分後者だ。
「今日一日は我慢しろって」
『…ヤァダァ』
 駄々捏ね。
 眼が冴えてきたのか、発音だけは幾らか増しになっていた。但し、声には依然熱がある。
「あのな。もし長引いたらどうする。明後日遊園地行けなくなるぞ」
『…大丈夫だよぅ……』
「そんなナリで何言ってる」
 彰吾の言葉に、また唸る。
「寄り道せず真っ直ぐ帰って来るから、今日はゆっくり寝てろ」
『…ご飯食べられない…』
 ノウンの簡潔且つ重大な意見。確かに食べられない。幾ら紹介した事があって、その日昼食と夕食をご馳走になった事があっても、病気だからと連れて来るのは変だ。
「あ…っと…それは…」
 本日金曜は授業数が一限少なかったりしているのだが、それでも帰るのは三時近い。
 彰吾が解決案を出せずにしどろもどろしていると、ノウンが『あはっ』と笑った。
『いいよ…彰吾。大人しくしてる…昼間も…寝てると思うし。…でも、できれば何か…買って来て…』
「ああ。お安い御用だ。何がいい」
『何でも…いいよ…帰りにあるコンビニとかで…』
「分かった」
『うん…』
 彰吾が了解したのを見て、ノウンは微笑んだ。
『じゃあ…布団の中に入ってるね。…無理にでも、寝てるから…』
「ああ。おやすみ…」
 そっと、瞼を撫ぜる。ノウンが弱くクスクス笑った。
『すぐには無理だよ~』
「そうだったな。…俺もそろそろ朝飯に行かなきゃならないけど、食べたら、学校行くまで居てやるから」
『うん…』
 二人の匂いがする顔だけ出して、返事した。
 朝食を食べて、部屋へ戻って来た彰吾を迎えたのは規則的な小さな呼吸音だった。寝てしまったらしい。下に降りた後、コップに水を注いで効くかどうか分からないけれど薬を飲ませておいたのが効いたのだろうか。飲んだノウンは苦さで涙目をしていた。やっぱりなという感じだった。辛いのは大丈夫でも苦いのは駄目らしい。単に、薬嫌いの可能性もあるが。
 彰吾は既に制服に着替えている。後は間に合う様に家を出るだけだ。鞄を直ぐ届く所において、ノウンの寝ているベッドに凭れる。布団の中に手を差し入れて、家を出るまでノウンの手を握ってやっていた。


 中学での授業。彰吾は普段と同じように聞いていた。ノウンが来てからも、成績が下がった事は無い。この間のテストも平均点が八十と、志望校には問題無いレベルだった。中学程度までなら、授業を休まず集中して聞いていれば何とかなるものである。本来、その記憶の継続が難しいのであるが、幸いにして一つの場所を進める授業は長いので、最低限の記憶力さえあれば後は理解力が重視される科目は安定する。問題は記憶力が重視される科目なのだが、それもテスト範囲や予想問題、挙句、テスト期間と時間があれば充分対処できるだろう。ちなみに、彰吾の地理と歴史はよくない(理科は興味があるので覚えられる)しかし彰吾の点数の中でよくないレベルで、平均よりは高い七十台だった。一時だけ覚えるのなら苦労はしない。テストや受験の為だけに覚える。漠然と高校に行きたいだけの人間にとっての勉強とは、そんなものだ。

 四時限目は体育だった。体操着に着替え、和樹達と話しながらゆるゆると校庭に出る。彰吾が現在選んでいるのはサッカー。体育だけは、ノウンが初めから堂々と見れていた授業だった。今はいない。声援も無い。
「おーい、生きてる? 試合前の練習のペア、あたしとあんたなんだけど?」
 十分のランニングの後、以前決められたチームに分かれて整列していると、正面で軽く手を振られた。佐々木馨だ。彼女はバレーでなく、サッカーを選択していた。
「あ、ああ。ごめん、ボッとしてた」
 彼女は体育の球技選択授業でバレーを選ばない。彼女と一緒になった友人が言うにはテニスだったりソフトボールだったりバスケだったりとバラバラだった。今回も、偶然サッカーを選んだだけである。バレー以外なら何でもよかったのだろう。
「別に謝られる事でも無いんだけどね。彼女とでも喧嘩した?」
 カクッと、彰吾の肩が落ちた。
「? 何?」
「誰から聞いた?」
「あ、やっぱあれあんただったんだ」
 馨は距離を取って、インサイドで彰吾にボールを蹴る。
「カマだったの?」
 足を伸ばしてボールを止め、蹴り返す。
「似てるけど、違うわね。こないださ、友達と遊んでたらあんたと女の子が映画館から出てきたのが見えたから」
「成程…雄太や和樹辺りが吹聴して回ってるのかと思った」
 ボールが地を小さなバウンドをしながら転がる。止めてから蹴るまでの時間が早い。
「あの二人は知ってるんだ?」
「一応。あいつ…ノウンって名前なんだけど、あいつも遊びたがるしな」
 彰吾が友達と遊ぶ時は、ノウンも姿を見せて参加するようになった。付き合っている事を隠している訳では無いのだから。何より、仲間内でわいわい遊びたかったし、遊んで欲しかった。あの二人の他にも更に集まってくるので、実際知っているのは五、六人か。女友達がいればいいんだろうが、彰吾は休日にまで遊ぶ女友達は居ない。自宅に連れて行けば亜紀と居られるだろうが、亜紀は亜紀で予定があって、そう都合よくはいかないのだ。
 ちなみに、彰吾は自分とノウンとの仲を知っている者にそれを吹聴して回られるのは構わない。だが、誤張を混ぜていたらちょっと過激な仕打ちにあってもらう予定である。とはいえ、殴る蹴るは不味いので、とてもミキサーに掛ける様な物でない物を混ぜ合わせたミックスジュース(牛肉や魚介類、マヨネーズやタレ、等)あたりになるだろうが。しかし実行される事はあるまい。他人の家で作る訳にも行かないし、自宅では食材が泣く。結局は脅しの武力だ。
「そっか。で、元気が無いのは。やっぱり喧嘩でもした?」
 馨の追究。雄太の場合は服を買って露見した、というのは黙っておいた。
 彰吾はパシッと、ボールを受けて、蹴るのを止める。
「何よ?」
 怪訝そうに離れた所から訊ねて来る。
「いや、佐々木さんも結構そういう話好きなんだなと思って。亜紀と同じで、そっち方面には淡白だと思ってた」
「…しつこかったかな。聞いちゃダメだった?」
「そういう訳でも無いよ。喧嘩もしてないし」
 コロコロとボールを足元で遊ばせた後、鋭く切り返して足元へと送る。運動神経の良い馨は少し驚きつつもしっかり受けた。馨はもう訊ねず、同じ様に強く返そうとする。
「っていうか、俺そんなに調子悪そうに見える? ボッとする位、誰でもあると思うんだけど」
 ちょっとパスがずれた。彰吾が動いて止めに行く。
「ボッとしてるだけじゃなくて、それ以外でも、何か考え事してるみたいだったからね。興味本位も、否定しないわよ」
 いつも通りにしているつもりだったが、そんな風に見えていたらしい。和樹や雄太は鈍いから気付いていなかったのだろうか。気遣ってという事はないだろう。気遣うような仲でもない。ずけずけ言う仲だ。同じ気遣うでも、間違い無く訊いて来る。
「勘違いならそれでいいわ」
 彰吾がボールを蹴り返した所で、ミニゲームを始める旨の先生の笛が鳴った。
「適度な心配は心の支えになる」
「え?」
 集合しに行こうとした馨の後ろから、彰吾が歳相応にさえ見せる落ち着きの声で言った。
「心配してくれてありがとう、って事。よければその内、ノウンに会ってやってくれないかな。あいつ、女の友達いないから」
「…来週の土曜日なら空いてるから、その日でいいなら」
「え? マジでいいの?」
 駄目元で言ってみたのに、ここまで快い返事が貰えるとは思わなかった。
「ま、ね。あたしも興味あるし」
「サンキュ佐々木さん。あいつに言ってみるよ。絶対、喜ぶと思う」
 自身を心配してくれた礼よりも、強く礼を言って、彰吾は馨を追い抜いて駆け出した。


 放課後。家に帰り、母のお帰りの返事を待たず、彰吾は部屋に駆け込んだ。
『おかえり、彰吾』
「起きてたか。どうだ、調子は?」
 鞄をカーペットの上に投げ置き、ノウンが上半身を起こし待っているベッドへ近付く。ブレザーも脱ぎ捨てた。
『うん。大分よくなってきたみたい。日曜までには間に合うよ』
「そうか。ほい、飯。夜の分も入ってるから、全部食うなよ」
 コンビニの袋を差し出す。
『もう、分かってるよ』
 受け取って、袋を開けながら不満気に言う。子供扱いされたことが不服な様だ。と、中を探るノウンの眼が一点で留まった。
『わぁ。これケーキ? いいの?』
 おにぎりやサンドイッチの中ノウンが見つけたのはカップに入ったフルーツケーキだった。ホイップクリームの上に、所狭しと小さく切られた果物が乗っている。
「ああ。蜜柑か何かの缶詰にしようと思ったんだけど、同じフルーツならこっちの方がいいかと思ってな。値段も安かったし」
『ありがとう! すっごく嬉しいよ』
「但し」
 彰吾が意地悪く笑って、喜ぶノウンの前にビシッと小さな、中が透けて見える薬を突き出す。中身は嫌な色の粉だ。ノウンの頬が軽く引き攣る。
「調子が戻ってきてても、薬は飲まなきゃな。飲まないならそれも無し」
『えぇ~っ! そんなぁ』
「風邪は治ったと思っても直ぐぶり返すんだ。人間の薬でも効くのは今朝実証済みなんだからな。飲まない、なんて言ったらケーキが無い上無理矢理飲ますぞ」
『おに~』
 しかめっ面で不平を呈すノウンに、
「鬼で結構。じゃあ俺は鬼らしく、嫌がるノウンに薬を飲む為の水を持って来てやるからな」
『あくま~』
 変わらずの不平だが、やり取りを楽しんでいる節の声だった。
 宣言通り、水を持って部屋に戻って来た彰吾は、明るい話題を口にした。
「ノウン、佐々木さんっていただろ。佐々木馨さん」
『あの、ちょっと亜紀に似てるカッコいい子?』
 ノウンも覚えていたらしい。
「そ。彼女がさ。ノウンと会ってみたいって。どうする?」
『ホント!? 友達になれるかな?』
「なれるさ。向こうも、結構その気だったしな。来週の土曜日、家でだって」
『うん。待ち遠しいな』
「でも、その前に遊園地だぞ。さあ、食べたらさっさと薬を飲め。ケーキは口直しに残しとくんだろ」
 いい事を伝えた後に、嫌な事を思い出させる。ノウンは渋々と薬の口を開いて、水で流し込んだ。

 さて、時間は過ぎて十時も回った夜。今までと違うのはノウンが風呂に入らなかったのと、昼食の時間が遅かった為時間をずらして夕食を食べさせ、嫌がる薬をまた飲まさせた位だった。
『ふぁ…』
 出された宿題を、その日の内にさっさと終わらせてしまおうと机に向かっている彰吾の耳に、短い、噛み殺された欠伸が届いた。
「眠いか?」
 彰吾の問いを、布団から顔だけ出したノウンが応える。
『うぅん…大丈夫。まだ起きてるよ。朝も昼も、沢山寝たし』
 確かにそうだが、彰吾が出て行ってから寝ていたか起きていたかはノウンしか知らない。
「そうか? 気、遣わなくていいんだぞ?」
 しかし、それはあくまで予想だ。もし昼間に寝ていたのなら、今から寝ては夜中に起きてしまう可能性があって、よくないだろう。彰吾はノウンの判断に任せる事にした。
『うん。まだ、起きてたいから。あ、でも、わたし、ここで寝ていいのかな? 風邪、感染(うつ)るかも』
「馬ぁ鹿。それで感染るんならずっと部屋にいた時点で感染るだろ。まあ、接触した方が、風邪は感染るって言うけど、気にする事ないさ。一応、俺も警戒して漢方薬飲んでるし?」
『そっか。彰吾って、その辺しっかりしてるね』
「お前もそんな感じだろ」
 自由奔放に見えて、色々考えているって点は。
『そうかな? 普通だと思ってたんだけど』
「普通に出来る事が、多分一番凄いんだよ。俺は考えなきゃ出来ない。お前と会えたお陰で、前よりその辺、手早くなったけどな」
『ふぁ…ン…』
 短い。吐息が詰まった様な呼気。
『やっぱり、眠いや…。先に寝るね』
「ああ。おやすみ」
『おやすみ…』
 ノウンの呼吸の間隔が段々と長く、寝息へと変化していった。部屋に響くのは、シャープペンシルがノートを撫ぜる音と、ノウンの寝息だけ。
 十数分後、点けていた電気を消して、彰吾も布団に入った。
 隣にあるノウンの顔は穏やかで、
「風邪、間に合いそうだな」
 過ぎった想像を消す呟きをして、腕の中の愛らしい少女を抱いて、彰吾は眠りに就いた。


 土曜日の朝。ノウンはもうはっきり、元気になっていた。昨日の朝のような状態を危惧していた彰吾だったが、その心配は杞憂に終わった。勿論、彰吾自身も風邪など感染(ひ)いていない。
 ノウンの調子が心配だったので、彰吾は本日友達と遊ぶ約束をしていない。今日は一日のんびりする予定だった。朝、朝食を食べて横になっていると、ノウンが言い出した。
『ねえ彰吾、わたし、遊びに来てもいいかな』
「遊びに? ああ、成程。そうするか」
 彰吾は言いたい事を理解してOKサインを出しす。それを受けて、ノウンは窓から飛び降りて行った。
 …数分後
 ピンポーン、と、癒し系の柔らかいドアホンが鳴った。
「はいはーい」
 母がスリッパを鳴らして、応対に出て行った。ドアホンの機能を使わず、直で。
 彰吾もカーペットから身体を起こし、部屋を出る。
 既に玄関は空いていて、沙希とノウンが楽しそうに会話していた。
「あ、彰吾!」
 今気づいた風を装って、ノウンが階上にいる彰吾に呼び掛ける。
「よっ」
 彰吾も、彼女が家にやって来たのを迎える様に右手を上げた。トントンと階段を降りる。
「もう、彰ちゃん。ノウンちゃんが来るなんて、一言も言ってくれなかったじゃない。私ビックリしちゃったわよ」
「はは。吃驚させようと思ってたからね」
「えぇ。そんなのわたし、聞いてないよ」
 計画通りと満足気な彰吾に、ノウンが非は自分に無いと主張する。
 沙希一人が不満げな状態に、英吾が沙希と寛いでいたのだろう居間から顔を出した。
「まあいいじゃないか。それより折角遊びに来てくれたのに、そんな所で立たせっ放しとは忍びないだろう。遠慮せず上がってくれていいんだよ、ノウンさん」
「失礼します。英吾小父さん」
 にぱっと笑って、靴を素早く、しかしきっちり並べてノウンは上がった。
「居間でノンビリ話すか。母さん達、会いたがってたからな」
「うん! わたしも会いたかったから」
 本当に。一方的に会うのではなく、ちゃんと会話したかったから。
「そうだ、亜紀ちゃんも呼んで来るわね」
 母が階段の方に身を返す。一歩を踏み出す前に、頭上から声がした。
「もう来てるわよ」
 脚を階段に置き、亜紀が降りてくる所だった。
「こんにちは! 亜紀さん」
 快活に挨拶するノウン。亜紀も会談を下り切って、
「こんにちは。彰吾が迷惑掛けてない?」
「いきなりそれか」
 開口一番の科白に彰吾が思わずツッコむ。
「あはは。迷惑なんて、すっごく優しくしてくれてるから」
「へえ、優しく」
 聞き様によっては微妙な表現だ。亜紀はそのまま受け取ってくれたらしい。
「あんた、好きな子は苛めるタイプだと思ってたんだけど。案外ちゃんとしてるんだ」
 だから表現が微妙だって。そう思うのは彰吾だけで、両親の沙希も英吾も気にしていないのだった。
「ならいいや。じゃあ、あたし、部屋に戻ってるから」
「あ…」
 亜紀が身を翻す背に、ノウンの残念そうな呟きが漏れた。この間も、亜紀は少し会話しただけで、友達の家に遊びに行ってしまったのだ。嫌われている訳で無いと思うが、もう少し話していたかった。
 その思いが伝わった訳でもないだろうが、亜紀が思い出した様に振り返った。
「何時頃までいるの?」
「あ、夕方位まで。お昼は、沙希さんが食べていいって」
 どうやら玄関でそんな約束を取り付けられたらしい。
「そう。じゃあ、プリンとかクッキーとか、ゼリーとか好き?」
「う、うん! 大好き!」
 勢いよく頷く。その頷きは、好きだという事の強調より、亜紀と話せている嬉しさに比重があった。
「じゃあ、こないだ逃げるみたいにいなくなったお詫びに、おやつに作ってあげようか?」
「ホントっ!? 亜紀さんのお菓子美味しいって、彰吾がいつも言ってたから、凄く食べてみたかったんだ!」
 チラと、亜紀は彰吾を見た。彰吾はどうという事無く、そのままに立っていた。
「じゃあ、期待して待っててね。後」
「どうしたの?」
 亜紀が少し照れ臭そうに視線を逸らす。彰吾の反応と似ている。
「さんはいらないから。亜紀でいいわ」
「―――うん! 亜紀、楽しみにしてるね!」
 やっぱり少々照れ臭そうに、今度こそ亜紀は身を翻した。
 その口元が緩んでいるのを、彰吾は見逃さなかった。亜紀も、ノウンと話してみたかったのだ。しかし弟の彼女という事で、会話が思いつかなかったのだ。けれどこれからは、そういう遠慮も徐々に無くなり、家族の様に、或いは友人の様に会話出来る。そんな日が、くればいい。

 居間で、この家で尤も大きいテレビをソファーに座ってみる。二つある内の一つを沙希と英吾、一つを彰吾とノウンが並んで座っている。沙希とノウンは、性格が似ているのだろう。ノウンの彰吾とのデート談を興味津々に聞いているかと思いきや(彰吾は話してくれない)在りし日の英吾との馴れ初めから告白デート、或いは、彰吾や秋の幼い頃といった思い出を語り返していた。
 英吾は平気な様だが、自分の事を話される彰吾は苦痛だった。
「えっと、沙希さん」
 話が一段落着いた所で、場を改める旨の発言をする。
「なぁに? ノウンちゃん」
「遊園地の券くれて、ありがとうございました!」
 ぺコッとお辞儀をして、ノウンは今日最も言いたかったお礼の言葉を伝えた。
「ふふ、別にお礼なんていいのに」
「でも、英吾小父さんと行きたかったんじゃないのかなって思って」
 思うも何も、その科白は直ぐ傍で聞いていた。
「確かにそうだけど、やっぱりここは彰ちゃんとノウンちゃんに、役立ててもらいたかったから」
 にこやかに、雰囲気の一辺も壊していない。沙希の本当に思い遣った、優しい気持ち。
「楽しんできてね」
「はい!」
 ノウンは発刺と、笑顔で答えた。


 ノウンが秋原家を辞去したのは、結局風呂まで貰った夜の八時だった。英吾は車で送ろうかと提案したが、住所の無いノウンには不可能である。断るノウンに、女の子の一人歩きは危険という事で彰吾が付かされた。
「じゃあ、見えなくするね」
 家から出て三分。ノウンは彰吾に告げる。彰吾は彰吾にしか見えなくなったノウンを連れて、コンビニで更に十数分時間を潰してから家路に着いた。

『彰吾、お願いがあるんだ』
「何だ?」
 就寝前、ノウンが深刻な顔で言った。
『明日、遊園地でしょ。それで、待ち合わせっていうの、やってみたいの』
 突然の、それでいて平凡な願い。待ち合わせなんていうのは、やった事は無かった。
「いいよ。別に。どこにする?」
『じゃあ、あの公園にしよう。初めて彰吾とデートした時に行った、あの公園。わたしが告白出来た、あの公園』
「分かった。あの公園な。朝食べたら直ぐにするか」
『うん! 待ってるから』


 朝起きて、彰吾はまず、違和感を感じた。僅かな間、気付くという時間も掛けずにそれは氷解する。簡単な事だ。本当に簡単な事。
「ノウン?」
 あの無邪気で無防備な我侭でいて理知的な無鉄砲少女が居ない。何処にも。先に起きたのだろうか、彰吾は現状を認識する為ベッドを降りた。
 第二の解答も直ぐに用意された。正確には、されていた。
 テーブルの上にノートの紙片。慣れぬ者が千切ったのだろう。端がギザギザだった。
 紙には丁寧な筆跡で、
 ―――先に行ってるね ノウン―――
 短い伝言の字は、ノウンの内面を写す様なしっかりとした綺麗な字だった。
 彰吾は小さな安堵の息を吐いて、着替え出した。全く、こっちが起きるまで待っていてくれればいいものを。朝食は出来ているだろうか。無ければ、抜いて行きがけにパンでも食べるか。
「彰吾、朝ご飯出来てるわよ。開園には充分間に合うけど、さっさと食べときなさい」
 そんな計画を立てている暇に、亜紀がドア越しに声を掛けてきた。
「分かってる。直ぐ下りるよ」
 彰吾の返事に納得の声を返して、亜紀は下りて行った。
 着替え終わった彰吾はハンガーに掛けている白地のジャンパーを取る。袖を通して、ポケットの中には財布と携帯、フリーパス引き換え券が一つ。そして数週間前から万が一の為に持ち歩いている、街中で持つには褒められたものではない物が入っている。四つの感触を確かめた彰吾は、朝から感じている最後の問題の用意されていない解答に違和を感じつつ、扉を開いた。


 彰吾は駆け足で公園にやって来た。まだ、待ち人は来ていなかった。
「自分から急かしといて」
 文句を言いつつ、彰吾は両手をポケットに入れて、時計の前の段で待つことにした。

 一時間が過ぎた。もうそろそろ、歩き出さないと、開園に間に合わない。彰吾は苛立ちと、一つの予感と、したくない覚悟を濃くして、段差の上に座っていた。

 彰吾は待っていた。頭上にある公園のシンボルは、既に十時を指していた。遊園地が開園する時間だ。ノウンはまだ来ない。
 スタと、彰吾は反動を付けて立ち上がった。中央の時計から離れて行く。
『待ちなさい』
 背中に、声が掛けられた。落ち着いた声音の男の声。
「俺?」
『ええ、そうです。それから、話しかけない方がいい。貴方がまだ死なないのならね』
 彰吾は眼を見開いた後、そんな事よりも大切な事がある事を思い付いた。
「その方がいいんでしょうけど、これだけは今聞かせて欲しい事なので訊ねておきます。ノウン、蒼い死神を―――今は人間の服かも知れませんけど、見ませんでしたか? 白い死神さん」
 白い、高位な天使にしか見えない死神は残念そうに首を振った。
 縦に。
『見ましたが、彼女の居場所を教える事は出来ません』
「そうですか。では、ノウンは俺の任を降ろされたとでも?」
 異様に落ち着いている心境に、自身ですら驚いた。いざという時にぎゃあぎゃあ喚いてもどうにもならない事を知っているからか、この白い死神は絶対に応えないと感じているからか。違う。今の彰吾の心には、一辺の隙間程も不純物を入れる余裕が無いからだ。
『いいえ。まだ付いています』
 瞳を閉じた、優しい掘りをしている顔の口から穏やかに言葉が紡がれる。微かにも、内面なんて邪魔なものは出されていない。
「なら、俺は貴方に用はありません。貴方もそうでしょう?」
 疑問で返しておいて、答えを聞く気もなく、彰吾は踵を返して歩を進め出した。背を、言葉が叩く。
『死ぬ気ですか?』
 彰吾は足を止めた。驚いた訳ではない。死神なら当然だと思っていた。
「なら何ですか?」
『貴方は、彼女の命が少ない事は知らなかった。なのに、その解決策を取ろうとしている』
「……」
 全く知らない事だった。ノウンがもう死にそうだったなんて。しかし、行動は間違っていなかったらしい。解だけ合えば、今回の場合は大本問題無い。
『貴方が自殺する可能性がある事は、分かっていました。ノウンは貴方に伝え忘れていたようですが、自殺者は死神には分かりません。自らの命を断つというのは、予見し得ないものなのです。自己の一つで変わりますから。そういう意味では殺人も似たようなものなのですが、あちらは他者、或いは自己から一方的に与えられ、与えるもの。自己の命を自己で断つのとはまた違います。意志の変化、自己防衛機能とでも言いましょうか、殺人はこれが弱いので容易に予見が可能です。一方、自殺は思い立ってもあっさり立ち消えになります。そういう意味で自殺者の自縛霊は多いのです。話がずれてしまいましたね』
 白い死神は、すみませんと謝罪して、
『では何故貴方の死が予見出来たか。それは簡単な事です。人間に可視出来るようにする前の彼女の姿を貴方は見えていましたからね。これもまた、彼女の恐怖で伝えられなかった事ですが、私達の姿が可視状態以外で確認できる生物は、近い将来死ぬ存在か、霊能力者等と呼ばれる特別な存在だけです』
「だから?」
 彰吾は声に険を含ませて言葉を遮り、真意を告げろとばかりに視線を鋭くした。
『長々と前置きをして申し訳ありませんでした。出来ればこうして引き止めている間に、貴方が死ぬ必要の無い状態になってくれれば私が恨まれるだけでよかったのですが、どうもそうもいかないようですね。彰吾、でしたか。貴方はもう、私の言わんとしている言葉が分かっているのではないのですか?』
「分かるさ。むかっ腹が立つ程に」
 丁寧な言葉を使うのを忘れている。吹いた風の所為だ。
「だがそこまで聡明なあんたなら、そんな話が無駄だと分かりそうなものなんだけどな」
『ええそうですね。大いに時間の無駄でした。しかし私は、無駄な事は嫌いでは無いのですよ』
 全て承知の上で話されているかのようで、彰吾は気分が悪い。
『死んだ所で、彼女と一緒にはなれませんよ』
 彰吾の眉が跳ねる。白い死神は淀み無く告げる。
『魂世界で転生出来る者は、こちらで精一杯生きた者だけです。自殺等以ての外。魂を綺麗に洗われて、新しく再利用されるだけですよ。どうします? 死んだ所で彼女は悲しみ、魂世界でも一緒になれず、更には転生体は別人以下。彼女に残るのは自分が生きる為に貴方を犠牲にしたという、一生の傷だけです。分かっている事ですから言いませんでしたが、貴方の家族もね。どうです、自らの命も失わず、大切な家族と生きていくというのを、私は推奨しますよ』
 ピッと、小石を蹴り込む。他の人間には見えない何かに衝突して跳ね返ったように見えただろう。構わなかった。現実、これだけ長々と虚空に向かって会話していた彰吾の見る視線は、奇異なものを見るそれと同じだ。中には、公園を出て行った者もいる。
「お前と話すのはもうウンザリだ」
『私は出来ればこのまま拘束してしまうのが、無限大の可能性を持つ不肖の隊員、ノウンに取って最もいい事なのかもしれませんが、貴方の判断に任せましょう。但し、見届ける事は許して頂けますか?』
「許可しなくても、勝手に見てるんだろ」
 彰吾の悪態に、人間のイメージする天使長の様な死神は、表面上だけはにこやかに微笑んだ。
『ええ、勿論』
 出来ればまだ何も存在しない場所。それがベストだったのだが、彰吾には今、どれだけ時間が残っているのか分からなかった。だから、ここで抜く事にした。
 ポケットから一本の短い棒。折り畳められた、紙を切るべき光が顔を出す。今は牙を向く刃だった。気付いた人間は居ない。或いは居たのかも知れないが、気味を悪がって注意する者は居なかった。
「運ばれる短い時間、ノウンと会うから遺言は要らないな」
『ええ』
 短く肯定した返事を確認して、彰吾は刃を自らの手首に押し当てた。
 ここに来て漸く、周りに害を齎すタイプのおかしな人間では無いと知った人間が止める声が聞こえた。気付いていた人間の中の、一人だけだったが。
 躊躇い等無い。グッと押し当て、引いた。引いてから流血で意識を失うまでの間、尋常ならざる痛苦に責められながら、血とはこんなにも激しく噴出すものなのかと、彰吾は感心していた。
 意識は深海よりも深く落ちた。






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