瞬と、一つの影が境界の通行道に現れた。小柄で、大きな眼が特徴的な少女だ。カンゴールから出した蒼く長い髪を一つのリボンで二つの流れに分け、右手には持ち手側が大きく丸まったロッドを持っている。
「ノウン。どうでしたか?」
 少女―――ノウンはやって来たのとは逆の境界線に立つ背の高い、柔らかな顔立ちに今は閉じられているが艶やかと漆黒が同居した瞳を持つ男性へと小走りに走り寄った。彼女等"  "を総轄し、彼女の在籍しているU隊の、二人しかいない直属の上司の一人、スティルだ。
「てへへ。また失敗しちゃった」
 ノウンは反省も稀薄そうに、明るく笑う。この場に似つかわしくなかった。この境界の終着バス乗り場ではまず見ない苦笑。ここには悔恨五割、困惑三割、やり遂げた充実感一割と後何か。そんな者ばかり来る方向からやって来たのに、彼女は安堵の表情だった。
「そうですか…」
 スティルが落胆したのが眼に見え、ノウンも少し俯ける。
「ごめんね。スティルさんも怒られちゃうのに」
「落胆している材料はそれだけでしょう?」
「うん! 後悔なんて一つもして無いよ。寧ろ喜んでる!」
 次には明るく変わるノウンの顔と声音に、ついついスティルは微苦笑を漏らす。
「あ、今呆れたでしょ?」
「いいえ。貴女らしい、と思っただけですよ。ちなみにこの科白は今通算で千の大台に乗りました」
「うぐっ。そんな数えて無くても」
 両手を胸の高さで(但し薄いが)握って喜んでいた姿から、今度は一転仰け反り、身体全体でショックを表す。
「ふふ……ノウン。この任を任されたのは貴女なのですから、貴女の考える最善を行う事は構いません。しかし、その全ては貴女が背負い、貴女の身に帰る事になるのですよ」
「うん…分かってる」
 姿勢を正したノウンに、スティルはこれも何度も言った言葉。ノウンはその度に自らの心に染み渡らせる様に聞き入っている。
 くるくる変わる感情。全身を使っての喜怒哀楽。そして時折見せる聡明な面。そうした彼女の色んな表情にスティルは和んでしまい、強く咎める事も出来ず、まるで悪戯をした家族を諭す様な優しい言葉しか出て来ない。
(こんな事ではいけない筈なのですけどね)
 彼女の指摘した呆れがあるのなら、それは正に自身に呆れているのだろう。客観的に見なくても甘やかしている事ははっきりと自覚している。それが間違っている事も。けれど長く生き過ぎた彼にとって、彼女を曲げるのは一番の大罪に思えた。
「まあいいでしょう。以後も任の際には励む様に」
「はい!」
 ノウンの快活な返事と笑顔に、スティルもその柔らかな印象通りの微笑みを返した。
「では、行きましょうか。お叱りを受けに」
「うん。失敗したら謝らなきゃね」
「ええ。私も貴女に仕事を回したミスがありますから」
「…酷いこと言ってる……?」
 スティルが本気でないのを悟って、わざとらしく大袈裟に傷付いて見せるノウン。彼女のリアクションは普段も大きいので紛らわしく感じるかも知れないが、実は彼女の演技は何故か一発で演技だとバレてしまうものばかりでその点で迷惑がられた事は生まれてから一度も無い。
「怒る気が失せたので皮肉という余り好きではないものを言ってみただけです。しかし皮肉が嫌いな上、心にも無い事を発現しては余計鬱憤が堪ってしまいますね」
「だったら言わなきゃいいのに」
 あははと笑うノウンは、何もかもを和ませる、まるでいつまでもそこに有る様な、そんな、彼女の日常の象徴の表情だった。


 二人の所属する本部、階層四階。最も重要な資料ばかりが固まっている階層の、四つある内の一番入り口から遠い場所にある部屋に、ノウンの二人いる上司の最後の一人、ディイスはいた。豪奢な机には本日送られた次に仕事を行われる、或いは行われるであろう人間についての資料が積まれていた。普段はディイスがそれに大まかな日付を書き、秘書の男性が確認済みの資料を手際良く隊毎に纏め、急なものは総轄者のスティルへ連絡を送るという態勢を取っているが、今はそのどちらも手が止まっている。
「ノウン。またやらかしてしまったようだな」
 溜息と諦めが混ざった声と息を吐くディイス。
「はい。やっちゃいました」
 悪びれた様子が見えにくいノウン。ディイスも秘書のネクロも指摘しない。この場に居る誰しもが、ノウンの呼び出しが百を越える前に慣れてしまった。
「今回の罰則はどの様な事を」
 一応、失敗にはペナルティーがあった。過去ノウンに課せられたものは給料引きに始まり誰しもが嫌がる過去の資料や事務処理、倉庫整理、雑用と言えないものまである。はっきり言って大したものでは無い。前回の最高責任者は拷問まで採用しており、前回の制度で言うならもうノウンは極刑物なのだが、運がいい事に前回の最高責任者の頃にはまだ隊に入っておらず、ディイスに代わってからは拷問制度は全廃されている。また、スティルが罰則を訊ねたが、今回―というか毎回ではあるが兎も角このような場合罰を受けるのはノウンだけでスティルは関係無い。訊いたのは中々話されない流れになりそうだったからだ。
 全く以って、いつもの光景だった。いい気分転換になったりすらする。
 だからこそ、今まで気付かなかったのかも知れない。
「その件については、もういい」
「は?」
 初めて聞く返答だった。今まではどんなに下らない罰でも下して来たのに。
「やった! ディイス様太っ腹! 今月はお給料引きも無かったからそれかと思ってたけど、これで苦労しないで済むよ!」
 珍しく呆気に取られたスティルを横に、ノウンだけは飛跳ねんばかりに喜んでいた。
 ディイスは眉根を寄せて、右手を前に出し、止める様に合図する。ノウンはその乱雑な指示に、一先ず姿勢を正した。
「…ノウンよ。お前はそれどころでは無いんだ」
「え?」
「今回、お前が"  "になってから、どれだけの月日が経った?」
 唐突にされた質問に、ノウンは不思議な顔をしながらも今迄の日々を思い起こす。失敗失敗の数と日付は覚えているが、日数が思い出せない。
「…えっと」
 そんな的を得ないノウンの横で、ハッとスティルが驚きで声を上げる。
「まさか…そんな…」
「気付いたかスティル。こんなになるまで気付かなかったとは、わしもお前も抜けている。耄碌と慣れはしたくないものだ」
「っく…」
 二人はそれだけで通じ合っている様だが、ノウンには何が何だか分からない。
「え? 何がどうしたの、二人とも?」
 答えの返されないままノウンの質疑に、ディイスは表情を厳格なものに変え、口を開いた。スティルは険しい表情で歯噛みしながら、それを聞いていた。
「"死神"番号UのN1、ノウン。お前が八万九千三百六十五人目の死神となってから四万四千三十六の日が過ぎた。その間、一人の魂も運ばなかったお前の命は尽きようとしている」






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