ピピピ、と目覚ましのベルの連続音がする。
 反応して彰吾は欠伸交じりに、ベルを止める。眠い。眠すぎる。いつもの半分も睡眠が取れた気がしない。その理由は言わずもがな、隣の蒼い少女の存在であった。
話は昨晩に遡る。
 夕方、ノウンは僅かの間姿を消していた。帰って来た時には
『夕飯食べてきたんだよ~』
 と言っていた。どうやって食べたのかは知らないが、朝、病院でパンを持っていた事を考えると盗むか何かしたのだろう。この点に付いて、彰吾は何も言えない。姿が見えず買い物が出来ない彼女に金を払って来いともいえないし彰吾が食事代を出してやる余裕も無いからだ。一日二日ならまだしも、毎日では破産する。どうせ死ぬ可能性が高いのなら、破産ぐらいどうでもいいだろうが、彰吾は生きる事前提で考える事にしていた。
 で、だ。そこまではいい。問題はその後だ。
 ノウンは彰吾が風呂に入ろうとしていたところに付いて来た。無論一喝してやったが、ノウンは男女とか特別意識していないようでしつこく一緒に入りたがった。人間と違って汗やトイレ等に行かないのだから、風呂に入る必要なんて無いのに。物珍しさだったら、そこらの銭湯にでも行って来い!という事で、彼女は膨れて本当に行ってしまった。その去り際の言葉をしっかりと聞いていなかったのが、彰吾の睡眠の敗因である。
 いよいよ寝ようかと言う時、彰吾は一つの選択に迫られた。さて、何処で寝させるか。ノウンは何処で寝ても平気そうだが、かと言って、女の子を床で寝させて自分だけベッドと言うのは気分が悪い。これが男友達なら文句無く床で寝てろというところだが。
『どしたの、彰吾? 早く寝ようよ~』
「早く寝ようって…」
『一緒に寝てくれるって約束したじゃん。早く来なよ』
「え? ちょ、ちょっと待て。俺はそんな約束した覚え無いぞ!」
 彰吾は大声になって、慌てて口を噤む。
「彰吾、五月蝿いわよ」
 明日の弁当の用意だか何だかで内容は兎も角声は聞こえたのだろう、部屋に向かっている亜紀が扉越しに注意してきた。
「ご、ごめん。携帯に友達が電話掛けてきてて」
 奇跡的に携帯が生きていたお陰で使えた言い訳。
「…まあいいけど。あたしもう寝るから、静かにしてよね」
「あ、ああ。分かった」
 亜紀が扉を閉める音を耳を澄まさせて確認して、彰吾はふぅと息を吐いた。
『疲れてるみたいだね、早く寝よう? わたしも眠いし』
「そうだな。俺は床で寝るから、お休み」
『えぇ~。一緒に寝るって約束したじゃない!』
 さっきのノウンの話を無視する作戦、失敗。
「あのなぁ…いつ、俺が、一緒のベッドで寝るって約束したんだよ」
 男女が一緒のベッドで寝ることの不味さはもう言わない。ノウンはその辺の感覚が麻痺してそうだから。
『わたしが銭湯に行った時だよ。けど、夜は一緒に寝ようねって言ったでしょ。返事しなかったって事は、いい、でことだよね』
「聞こえてなかったって言う可能性は考えないのか?」
『…わたしは普通の声で言ったから、聞こえなかった場合の非は彰吾にあると思うな』
 こんなとこだけ理屈っぽく言われても。
『ね、いいでしょ、一緒に寝ようよ。彰吾がどうしても床で寝たいのなら、床でいいけど』
「ああもう分かったっ。ベッドで寝ればいいんだろ、ベッドで!」
 ノウンが奥に入り、スペースを空ける。その空いたスペースに半ばヤケクソ気味に彰吾が入ったが、元々シングルベッドだ。二人で寝れなくも無いが、かなり狭い。必然的に密着状態になる。背を向けた彰吾に対して、ノウンがくっ付いてくるから余計にだ。
『えへへ…誰かと眠るの、久し振りだなぁ』
 悪意無く手なんぞを回してきて、
『あったかいなぁ…』
 ノウンはそう言いながら眼を閉じ、程無く寝息が聞こえてきた。寝たらベッドから降りるつもりだったが、腕が回されていては逃げるに逃げられない。
 生殺しか。妹みたいな感覚とでも思えと言い聞かせてみるも、この年の妹が兄にこんなことする訳も無く、同じ理由で亜紀や母と寝てると思えと言うのも却下で。結局、この生殺し状態(おあずけとも言う)は、彰吾の瞼が自然に塞がるまで続いた。
「呑気に寝やがって…」
 彰吾はよっぽど怒鳴りつけてやろうかと思ったが、本当に呑気で、本当にグッスリ熟睡しているノウンの顔を見ると、その気力も萎えた。
 無邪気で可愛いって得だよな。彰吾は自分の考えに、自分で呆れた。


「おはようさん」
 ノウンを起こさず、まだパジャマ姿で下に下りた彰吾を、朝の味噌汁の香りが迎えた。
「おはよ」
「おはよう、彰吾」
「彰吾、おはよう。まだ眠そうね」
 亜紀、英吾、沙希と三者挨拶を受けて、彰吾は席に着いた。
「ああ、ちょっと寝すぎた」
「ご飯食う前に顔洗ってシャキッとしてきたら?」
 沙希の勧めに、彰吾は反論する事も無く、
「そうする、その間に注いどいて」
「はいはい、分かったわよ」
 味噌汁を注いでいた亜紀が、彰吾の席へと歩いて行った。注いでくれるらしい。
「サンキュ、亜紀」
「普段はちゃんと自分でやりなさいよ」
「ああ。冷めない内に食べたいから、さっさと顔洗ってくるよ」

 洗面所で顔をタオルで拭いていると、少しばかりノウンの存在が稀薄に感じてしまう。夢だった方がいいのだろうが、これは現実だと、しっかり認識しなければいけない。人に言えば黄色い救急車ものでも、だ。
『もう、何で起こしてくれなかったのっ』
 ギョッと、彰吾は後ろを振り返った。眠る時までその服のままだった蒼い少女が立っていた。
「あれだけ熟睡してる奴を起こせるかっての」
『うぅ~。起きたら居なかったから吃驚したのにぃ』
「俺は何歳児だ。そしてお前は幼女か」
『彰吾は十五歳、わたしは幼女じゃなくて、百二十歳だよ』
「じゃあ、婆さんか」
『わたしはおばあさんじゃないけど、その言い方おばあさんバカにしててよく無いよ』
 そういえばそうだった。
「ああ、そうだな。反省しとく。それよりお前も顔洗ったらどうだ。さっぱりするぞ」
『うん、そうする』
 今の内ぐらいしかノウンは洗顔できないだろう。新しいタオルを一つ抜いて用意して…
「って、マジで百二十歳?」
『うん。歳を数えない死神は多いけど、わたしは数えてるから』
 彰吾の心境は、一言で表す事が出来た。
「見えない…」
 そりゃ寿命が違う可能性があるから外見は兎も角、考え方が全くそう感じられない。単純に考えて、彰吾の八倍を生きている人間の思考とは到底思えない。ああ、人間じゃなくて死神か。死神にも年齢にも相応に見えない。全部嘘に思えてくるが、全部本当の事。
『いいじゃない。別に。あ、外見は死神の平均寿命が二千だから、しょうがないだけだからね。まだわたしは成長期なだけだもん』
 本当はピークが長いだけで、人間と同じ成長をする。個人差はあれど、二十程度までは人間と変わらず、その後、ピークの姿を維持し続けるのだ。つまり、やはりノウンの外見は死神としてもかなり幼い。包み隠さず言うノウンがそれを言わなかったのは、本当にまだ成長期だと思っているのか、これだけは見栄を張りたかったのか、それはノウンしか知らない。
「ほれ」
『ありがと』
 彰吾からタオルを受け取って顔を拭くノウン。一枚位余分にタオルを使っても、気付かれる事は無いだろう。
「じゃあ、俺は飯食ってくるから、お前も何か食べて来いよ」
『うん、そうするよ。じゃあ、そうだね…学校で会おうか?』
「…マジ?」
『マジだよ。眼の付く所に居ろって言ったの彰吾でしょ?』
「それはそうだけど…」
 まさか学校までとは…
『ダメ、かな…迷惑かけないようにするから』
「…まあ、いいけどさ」
『やた!』
「でも、学校分かるか?」
『うん、それは大丈夫! じゃあ学校でね』
 そう言い残すと彼女はロッド片手に走り出した。
「何であんなに喜ぶんだろうな」
 俺に付き纏っていても暇だろうに。学校なんかに居ても楽しくないし、同じ暇なら、映画館ででもタダ見をする方がよっぽどいいと、彰吾は思う。しかし彼女は彰吾では無い。ノウンが迷惑を掛けないと言うのなら、好きにさせればいいだろう。


『彰吾ー頑張ってねーっ』
 ニコニコと、ロッド片手に高い所から声を掛けて来るノウン。彰吾は驚きを抑えつつ、不自然にならないように宙を見上げた。言葉は使えないので手で軽く合図して分かってると伝えた。
「何やってんだ?」
「いや、何でも」
 自転車で通学中に(事故の際には降りていたので無事だった)会った友達の一人、藤宮和樹が怪訝な顔をするが、適当に誤魔化した。彼は余り細かい事を気にしないので、あっそと昇降口へと向かい出した。
 事故の事を訊かれるのは面倒だなと思っていた彰吾だが、それは杞憂に終わった。何度か親しい友達に訊かれた後は、教科担当の教師が訊ねてくるだけだ。この程度なら大して苦痛でも無い。
 寧ろ、その事故のもう一つの事情の方が気になる。ノウンだ。
 遠慮してか教室内にこそ入ってこないものの、彰吾の居る教室が見える位置にある高い樹に座ってニコニコと覗かれている。何が楽しいのだろうか。尤も、教室の中に入って来られるよりマシだ。そんな事をされたら眼について勉強なんて出来やしない。
 あんな所に待たせっ放しなのは悪い気はするが、幾らなんでも家の外でまで面倒を見切れない。彰吾は大して気にしない事にしていた。
 キーンコーンカーンコーン
 四時限目が終わり、給食準備が始まる。今週当番ではない彰吾は窓から外を見た。ノウンの姿は無く、昼食を買いに行ったのだろうと思った。
 学校の給食は案外美味いものだ。また、友人と談笑しながらの食事も許されている。彰吾も当然、クラスメイトの迷惑にならないようにしながら机を寄せたりしていた。
「今月のガンガン、鋼の錬金術師が相変わらず面白かったな」
「ああ。アニメの方も、な」
「あ、俺それ見れてないんだよな。まあ、再放送やってるからそっちで見るけど」
「救世主の奴も、ちょっと唐突だが、展開は面白くなってきて無いか」
 会話はゲームやアニメや漫画、スポーツに時折ドラマやバラエティが混ざる位。極めて普通の会話だ。いつも同じだけど、楽しい会話。
「男女比のバランス崩れてるけどな」
「まあ、見方を変えればハーレム漫画だもんな、あれ」
「某三十一人よりマシだろ」
「そりゃそうだ。そういや、あの医療ドラマ、今日はどうなんのかな」
「俺は原作読んでるから、どうなるか分かってるよ。教えてやろうか?」
「いいや、やっぱきっちり自分で見る」
「そりゃそうだ」
 現実。リアル。勿論、ノウンの存在も現実。漫画やアニメやゲームみたいな、現実。
 給食を終え、机の場所も戻して、昼休みに入って軽く伸びをしてさて誰と遊ぶかと考えた所で、コンコンと窓を叩かれた。ノウンだ。胸に大きな袋を抱いている。ロッドを落としそうで危なっかしい。
 顔だけ向けて、用件を促す。
『校舎裏に来て、一緒に食べよう。結構日当たりのいい場所見つけたんだ。人も居ないし、バレないと思うよ』
 彰吾は少考して、首を横に振った。流石にそれは不味い。買い食いなどバレたら面倒だ。駄々を捏ねられるリスクもあったが、ノウンはあっさり、
『そっか、そうだよね。もうご飯食べてるし、やっぱり危ないもんね。でも、私そこで食べてるから、気が向いたら来てね。分けてあげる』
「ああ」
 そう返事をしたものの、彰吾は向かわず、体育館で異様な多人数でバスケットをやっていた。今年受験なのに、案外危機感は無いものである。
 昼休みも残り十分を切った。まだまだ教室に戻るには間に合う時間だが、彰吾は結局ノウンの様子が気になって抜ける事にした。得点は乱雑なので、一人抜けた所で構わないだろうし、片付けだってボールだけだ。
 彰吾は細かい場所が分からず、兎に角校舎裏に向かった。まさかもう食べ終わっているだろうと思ったが、意外にも、いや、当然と言うべきか、陽に照らされ、ノウンは段に腰掛けていた。太陽が似合う。感覚から脱却出来ていない所為で、やはり死神には見えない。
「ノウン」
 彰吾の呼び掛けに、ノウンは気持ち良さそうに閉じていた瞳をパッと開け、
『彰吾! 来てくれたんだ!』
「あ、まあ、一応」
 人目が無くとも、会話の声は小さい。これは案外不便だと思う。…続けていれば慣れてしまうのかもしれない。それはそれで不便だ。
『ほらほら、このパン食べてみない。餡子が美味しいよ』
「いや、パンは、別に」
『じゃあじゃあ、ジュースなんてどうかな? 学校の給食は牛乳だし、飲めるのも冷水だけなんでしょ?』
「ああ…じゃあ、オレンジジュース、ある?」
『うん! はい、彰吾』
「ありがと」
 缶のブルタブを開けて、これってどっかで盗んできたもんなんだよなぁ等と考えながら、液体を喉へと流した。
『彰吾…』
「ん?」
『明日も来る?』
「…考えとく。期待はしないでくれよ」
『うん! 待ってるね!』
 五時限目、教室に戻った時には当然の様に、ノウンは樹に登っていた。
 午後の気だるい授業が過ぎると、清掃が始まる。こんな事真面目にやる生徒は少なく、適当にやってハイ終わり。
 明日の授業と本日の反省をして、帰宅と相成った。部活はもう終わっているので、三年の生徒は帰るか、用が無いのに駄弁るかのどちらかだ。
 彰吾は帰る方を選択した。終了が四時前では友達と遊ぶ事も出来ない。別れの挨拶を告げて、早々に教室を出る。階段を下り、下駄箱で靴を履き替えていると、影の無い、人影が隣に立った。
『お疲れさま。さ、帰ろう』
 彰吾は首だけで頷いて、駐輪場所へと向かった。
『彰吾、後ろに乗せて』
 自転車のストッパーを外していると、ノウンは唐突に提案してきた。
 彰吾は小さく首を振る。
『えぇ~いいじゃん。乗せてよ~。わたし、軽いし、彰吾なら大丈夫だよ』
 そういう問題でも無いんだが。端から見て一人乗りなのに辛そうに漕いでいる姿はどうなのだろうか。彰吾は取り敢えず、アホみたいだと思う。或いは、体力無し。
 再び首を振る彰吾に、
『いいも~ん。じゃあ、勝手に乗るから!』
「お…っ」
 声を出しそうになって、辛うじて抑えた。
 ノウンはスカートを気にした風も無く、後部に跨っている。こうなってしまっては、もうしょうがない。
 彰吾は鞄を籠に居れ、仕方なくサドルに跨った。
「動くぞ」
『うん!』
 ノウンがしっかりと胴に手を回して来たのに若干照れながら、彰吾はペダルを漕ぎ出した。家に帰ったらきっちり、文句を言おうと決めて。
 二人乗りながら、帰りは下りが多い道なのでスピードは出る。余り苦ではなかった。しかし、行きの時にはごめんだ。
 ノウンは、
『速い速い~』
 と喜んでいた。乗り物自体、珍しいのかもしれない。だって彼女達は、人間なんかとはい動力の桁が違うのだから。移動している所は知らないが、多分車よりよっぽど速い筈だ。
『彰吾、受ける風が気持ちいいね~っ』
「そう」
 乗り物が要らないから、逆に乗ってみたい。例えそれが、在り来たりな自転車でも。

「ただいま~」
 言いながら玄関を開けた彰吾を、
「お帰りー彰ちゃん」
 掃除機を掛けている沙希が迎えた。沙希は昼間はパートをやっているが、夕方は買い物以外は大体家に居る。今日は掃除を序にやっているのだろう。
 母は家事が好きだ。結婚した当初は専業主婦だったらしいが、それだと家事を全部一人でやっても暇がありすぎるからパートを始めたと言っていた。
「亜紀はまだ帰ってないみたいだね」
「ええ、亜紀ちゃんも遊びたい盛りだからね。来年は受験だし、今の内に遊んでいた方がいいでしょ?」
「受験生でも遊ぶ事はあるだろ。彼氏でも出来たら、さ」
「亜紀ちゃんにいい子、いるの?」
 沙希が興味深そうに訊いて来る。幾つになっても、女の人はこういう話が好きだ。
「居るかもしれないって事。俺は知らないけどね」
 彰吾は当てずっぽうだと白状して、
「部屋で勉強してるから、ご飯出来たら呼んでね」
「勉強からゲームや漫画に移行しすぎちゃダメよ」
 釘を刺された事に苦笑いし、階段を上って行った。
 部屋の前まで来て、彰吾は一緒に入ってこようとするノウンを手で静止させた。
「着替えるから外で待っててくれ」
『え? 別に気にしないよ?』
「俺が気にする。俺がドアを開けるまで外で待ってろ」
 ノウンは随分と不満そうだったが
『は~い』
 渋々と納得してくれた。

 本日は宿題無し。彰吾が家に帰ってからやる事は、ノウンとの密談(と言うほど大袈裟でもないが)してやるぐらいだ。
「しかしお前、話してるだけじゃ退屈じゃないか? 本とか読んでもいいんだぞ。この間の続きとか」
『ううん。確かに本は面白いけど、やっぱり誰かと話せる時は話してる方が楽しいよ』
「そんなもんか?」
『うん!』
 臆面も頷くノウンに、彰吾はしかし、談笑だけでは暇だった。
「そうだ、ゲームなんてどうだ。お前、やった事無いんじゃないか?」
『ゲーム? あ、テレビゲーム? それは、やった事ないよ』
 ノウンの返答に、彰吾はニヤリとして、
「じゃ、やってみないか? 格ゲーなら、しゃべりながらでもわいわいやれるぜ?」
『う~ん…じゃあ、ちょっとだけ。でも、わたしやり方知らないよ』
「ああ。ヴァリヴルシリーズなら操作も簡単だし、すぐ慣れるよ」
『わかった』
 ノウンは余り乗り気ではなかったが、半ば彰吾に押し切られる形でコントローラーを握った。しかし、興味がなかったと言えば嘘になる。直ぐに楽しい歓声が走り出した。
『えい! やっ。ッ喰らえ、必殺ぅっ! ああ、逃げないでよ、彰吾』
「そう何度もサービスで喰らって堪るかっ。一本は取らせても二本取らせての負けは嫌なんでね」
『大人気ない~っ』
「お前の方がよっぽど年上だろうが」
『経験が先って意味だよっ』
「先にやってた奴の特権だ」
『うぅ~っ! と、隙あり!』
「甘いっ!」
 ノウンの使用キャラクターユニアの超必殺、レイジングストームが発動したが、彰吾が即座に反応して入力した、火都晶の相手の超必殺技に反応して発動する覚醒奥義、黒炎の判定成功。晶が炎を巻き散らした乱舞を叩き込み、最後に大蛇の形を模した闇の炎でユニアを焼き尽くした。
『うにゃぁ~っ』
 ユニアの敗戦ボイスにノウンの悲鳴も重なった。
「まだまだ甘いな」
 彰吾の方も、素人相手だと言うのに容赦なく勝利台詞を浴びせる。大人気ない。
 その後、亜紀が帰って来、沙希と共に食事の用意を始め、英吾が返って来るタッチの時間に出来上がり呼ばれるまで、彰吾はノウンと対戦を繰り返していた。彰吾は何連勝かでノウンに対する本日の復讐分も収まったので、勝ったり負けたりを繰り返してやった。


「亜紀ちゃん。今日は遅かったけど彼氏でも出来たの?」
 食卓を囲んでいると、沙希がいきなりそんな事を言い出した。彰吾は何だか嫌な予感がしたが、退散しようにもまだ全然食べてない。ここで抜けるには余りにも不自然すぎる。
「別にいないけど。何で?」
「彰ちゃんが亜紀ちゃんにそろそろ彼氏が出来る頃じゃないかなって」
「そこまで言ってない。大体冗談で言っただけだよ」
 亜紀の怒りの仕打ちが嫌で(主に料理本に載っていない実験作の味見役)彰吾は即座に反応するが、亜紀の反応は薄いものだった。
「別に。今日は友達と遊んで来ただけよ。クラスメイトの男子、あんまり興味ないし、年上には逆に相手側が興味湧かないだろうしね」
 付け加えると、一応犯罪。
「ほう、年上が好きなのか」
 英吾も会話に参加してきた。
「そういう訳じゃないわよ。ガキっぽいのが嫌いなだけ」
 言って、この会話はもう終わり、とばかりに湯飲みに口を付けた。
 ああそっか。まだ、亜紀の中では兄の誠二が一番なんだな。
 亜紀の男性の基準は、間違い無く誠二だ。彰吾だけは、それが分かっていた。結果的に茶化した事になった自分を反省し、誠二以上の人間でも現れてくれればいいのにと思うのと、誠二以上の人間なんて簡単に居る訳も無いか、と思う両方の気持ちがあった。
 高みのまま逝った人間は、無敵なのだ。

 今夜もノウンが一緒に寝る~っと駄々を捏ねた。殴るに殴れないし怒鳴るに怒鳴れない。今夜もまた、生殺しだった。続けば慣れるのだろうか。この歳で慣れたら駄目な気がする。

 火曜、水曜と、彰吾は似たような毎日を過ごした。たった三日で、もう当たり前になりつつあった。


 今日も同じベッドで寝て迎えた木曜日の朝。
 何か異音がする。地面を叩く、細かな弾ける音。彰吾はベッドから起きだしてカーテンを開いた。ザーザーザーと、数多の雫が空気を裂き、地を殴っている。
 陰鬱な、しかしなければ生きていけない天からの恵。
「雨、か…」
 昨夜のニュースにおける本日の降水確率30%。充てにならないものだ。多分、今朝のニュースでは100だか80だか、夕方の降水確率を言っているのだろう。
「ノウン、起きろ」
 小さな身体を軽く揺する。反応は早く、
『うぅ~ん…』
 と、眼を擦りながらシーツに入った身体を起こした。まだ眠そうにしていたが、彰吾の姿を認めるとパッと笑顔になり、
『おはよう、彰吾』
「ああ」
 相槌を打って、視線を外に向ける。
『あ、雨…』
 ノウンも、気付いて呟いた。ノウンが来てから、初めての雨。
「今日、どうするんだ?」
 彰吾が予定時間より早く起きた為、下に下りずに予定を訊ねていた。
『どうするって?』
「だから、こんな雨の中外にいる気かっていうの。お前はよくても、俺の気がよくない」
 我侭な一方的な意見だが、ノウンの身体を思いやっての意見。
『う~ん…流石にわたしも、雨に降られてるのは平気じゃないよ』
「だったら、今日はもう決まりだな。家で大人しく漫画でも読んでろ」
『えぇ~っ。そんなぁ…』
 不満そうに、しかし曲げ難い正論である事も分かっていて、ノウンは強く言えない。
 残念そうに沈んでいるノウンに、彰吾は溜息一つ。
「学校終わったら即帰って来て遊んでやるから、大して読んでも無いお前からすれば珍しい漫画でも読みまくってろ。この間の続きとかな」
『うん…』
 それでもノウンは、まだ沈んでいた。

「いつもより随分速いね」
「念の為よ」
 沙希と亜紀が作った朝食を食べた彰吾は、雨具を上下きっちり着、いつもより余裕を持って家を出た。亜紀も同様で、今日は珍しく家を出る時間が被った。亜紀も、きっちり雨具を被っていた。彰吾と違うのは、ショートの髪が押さえ付けられない様に気を使っている点か。
「じゃ。車には気を付けなさいよ」
「了解。亜紀こそ気をつけなよ」
「…次はあたしの番、ってこと?」
「冗談でもそういうこと言うなよ」
「…ごめん」
 謝って、亜紀が先に門を出た。彰吾も続いて出た。
 通う方角は逆なので、ここで分かれる事になる。彰吾の志望校は、亜紀と同じだ。受験に受かれば、亜紀の通る道は彰吾も通る道になる。今は違う道。時期に、重なる道。

 一時限目は選択体育だったが(希望者別にテニスやサッカーに予め分けてやると言うもの)この雨なので体育館でのバレーボールに統一された。
 女子はボール籠やスコアボードを引っ張って来、ネットやポールを持って来る男子達。この辺で手を抜いていると、成績も下がるが、今ここで意識しているものは少ないだろう。
 彰吾も体育好きの人間ほどでは無いが、程々に手伝っていた。
 さて、用意も整ってバレーボールであるが、これが初心者or慣れていないものには大変難しいのだ。まず、サーブは上からなんて無理。レシーブが出来ない。トスが低い。スパイクのタイミングが合わず空振るか、合っても叩き付ける様な球は打てない。
 しかし、だからこそ、わいわいやる分には楽しいのかもしれない。
 男女混合でのバレーボール。コートは二面分あるので、同時に二試合、全員がプレイしている。一チームの人数が多いのはご愛嬌だ。上記の様な理由もある。
 ダダダン! と、レシーブミスのボールにダッシュする人間が一人。彰吾の友人の藤宮和樹だ。彼は、遊びでも、遊びの範囲で真剣にやるタイプで、零れたボールは最後まで追う。届きそうに無いボールでも反応していたが、今回のは届きそうだ。
「っとらっ」
 彼はあろう事か背中を壁にぶつけながら脚で返した。反則では無いが、無茶をする。
 脚で返したにも拘らず、自軍コート内に戻っているのは、流石元サッカー部主将だけの事はある。
 そして、ボールの返されたスペースは中衛、丁度彰吾のスペースだった。
 そのままレシーブで返すだけでよかったのだが、彰吾は一つ跳ぶ事にした。このバレー、元バレー部及び経験者はアタック禁止なので、経験者ではない自分がやってみておこうと思ったのだ。
「いっ」
 しかし、高く上がったボールをジャンプで合わせるのは難しい。やはり中途半端なスパイクになってしまった。それでも、ネットは跨いでコート内に入ったので、何とか笑いの種にはされずに済んだ。ボールは、相手のレシーブがもたもたして、返って来た時にはアウトコートだった。
 女子の一人が戻って来たボールを拾う。
「はい星野、次のサーブ、貴女でしょ」
「う、うん。入るかな」
「入る入らないは別として、よっぽどやる気が無い限り、ネットは跨ぐわよ。仮に届かなくても、やる気があれば、皆冷めたりしないって」
「そうだよね。うん」
 受け取った女の子星野は、ボールを持って一番後ろまで下がっていった。渡した方の女子は、佐々木馨。確か引退するまではバレーボール部だった筈だ。快活な強気で、女子のリーダー的存在だ。彰吾とも何度か話はした事がある。
「何?」
 見ていた事に気付いたのか、馨が訊ねた。
「いや、言い得て妙だな、と思ってね」
 やる気の無い人間のサーブは本当に酷い。最低自軍の後衛にすら届かないのを、彰吾は見た事がある。
「ま、確かにね」
 馨と話していると背後からポーンと、大きくは無いが小気味良い音がした。少し遅れて、ボールが放物線を描いて飛んで行く。星野のサーブは網に掛かるか掛からないかのギリギリの所を辛うじて抜けて行った。

 体操着から制服に着替えて、和樹達と他愛無い話をしながら教室に戻る。比較的早かった様で、女子も男子もまだ半分も戻っていなかった。
 窓から樹を見てみる。何も居ない。色が変わり始めた葉が茂っているだけ。
 ホッと息を吐いた。今朝の様子ではもしかしたら来てしまっているかもしれないと思っていたから。


 三時限目、歴史は彰吾の好きではない科目の一つだ。体裁上、嫌いとは言わない。
 しかし現在の社会情勢なら兎も角、過去の事など習った所でどうだと言うのだろう。記憶の力でも試しているのだろうか。彰吾は過去の一部の偉人に感謝こそすれ、覚える必要は無いと思っている。学生だから、覚えているだけだ。
 黒板に書かれる文をノートに取り、音読の際には順番が来たら読む。和樹や雄太といった友人の音読も、余り真面目には聞いていない。嫌いな授業にはそれなりだ。何より、自分で既に読んでいる。
 チャイムが鳴り、教科書を片付け始める。次は移動教室の音楽だ。使ったり使わなかったりのアルトリコーダーを取りに、席を立った。立った時、偶然窓方向を見た。
 樹が、ガサッと不自然に動いた。
「!?」
 まさか、そんな、と思っても、動いたものは動いた。
「和樹」
 近場に居た和樹に声を掛ける。これは友達なら誰でも良かった。
「ん? 何だ?」
「間に合わなかった時、佐藤先生に伝えといてくれ。ちょっと腹壊したんでトイレに行ってるとか、そんな感じで」
言うが早いか走るが早いか、彰吾は駆け出した。
「お、おいっ!」
「頼んだぞ!」
 後ろからの科白に一言、信頼を表して、階段を跳び下り跳び下り急いだ。


「はっ…はっ…はっ…」
 短い呼気を繰り返して、身体が濡れるのも構わず、彰吾は樹の下まで走った。走って、向っている癖に、居ないでくれよと思っている存在は、果たして、当たり前の様に存在(い)た。
『あ、彰吾…』
「お前、何やってんだよッ!」
 彰吾が学校内だということも忘れ、声を張り上げて怒鳴り付ける。
 傘が差せる場所で無い木の上で、ノウンは雨でビショビショニ濡れ、服は身体に張り付いている。一体いつから居たのだろう。ついさっき? 三時限目が始まってから? それとも…一時限目の休み時間に確認した後直ぐ? 席が窓際じゃなかったから、一度居ないと思うと外なんて目に入りやしない。
『…ごめん』
「ごめんって…」
 彰吾は苦虫を噛締めたような顔をした。ノウンが謝る義理は無い。被害に遭うのはノウンだ。今は彰吾も濡れているが、外に出て来なければよかっただけ。
 はぁ、と彰吾は濡れた髪を掻いた。
「どうでもいいから、下りて来い。話しにくい」
『…うん』
 ノウンは恐る恐ると言う感じで、風船の様にふわふわと下りて来た。
 下りたノウンの腕を右手で掴んで引っ張る。
『あの、彰吾。怒ってる、よね?』
「怒ってる」
 振り返りもせず言い捨てると、雨陰まで走らせた。
『あの、彰吾』
「水乾かしたり、そういう事は出来ないのか?」
 まだ怒っている風に、彰吾は訊ねる。
『出来てたら、とっくにやってる…』
「だよな」
 ノウンほどでは無いが、染み付いた制服の胸元を引っ張る。
 キーンコーンと、時間を告げる合図。
『彰吾…授業、始まっちゃったよ?』
「…受ける気しない。担任に早退手続きしてくる」
『ダ、ダメだよそんなっ! サボリなんて』
「五月蝿い。一日位休んだ所で大して変わらない」
 一瞥して、彰吾は昇降口へと戻りだした。彰吾は苛立ちを隠していない、鋭い眼だった。
『ヤだよ! わたしの所為で、そんな事されたくない!』
「そうまで分かってるなら、何で来たんだっ」
 今度は振り返って、小さな声で器用に怒鳴れるだけの冷静さを取り戻していた。
『だって…だって…一人じゃ、楽しくないんだもん』
 ああ、そうだ。こいつはこういう奴だったんだ。唯眺めているだけの、何が楽しいんだか知らないけれど。彰吾は、怒るを通り越して逆に冷静さを取り戻していた。
「分かったよ…」
『え?』
「サボらないから、お前もどうにかその服乾かして中に入って来い。そしたら濡れないだろうが」
『入っても、いいの?』
「ああ。今回のだって、端っからそうしとけばよかったんだよ。悪かったな、言わなくて。分かったら服から水が滴らないようになるまで待つか、あるなら着替えでもして来て入って来いよ」
『う、うん!』
「但し、昼飯は出せないし、俺になら兎も角他人に迷惑掛けるなよ」
『分かった! 彰吾、ありがとう』
 別に礼を言われる事でも無いけれど。雫を垂らしている少女の笑顔は、嬉しかった。


 いつもと同じ。けれど、彰吾一人にとってはいつもと少し違う授業。
 給食の時間も、何処から調達してきたのかおにぎりやパン、缶ジュースを彰吾の横で飲み食いしていた。横に居て、話し掛けても返事なんて滅多に返らない、返せないのに、ノウンは終始、ニコニコしていた。

「ではまた、明日も元気に来る様に。さようなら」
「「「さようなら」」」
 帰りの挨拶も済ませ、彰吾は机の上の鞄を引っ掛けた。
「雨、まだ降ってるのか」
 人に話すのでなく、独り言を装って呟く。
『うん。全然勢い収まってないよ』
 ノウンは至って普通に。制約が無いのはいい事だ。
「先に帰ってろ。その方が濡れずに済むだろ?」
『あ、うん。分かった。早く帰って来てね』
「ああ、待った」
「なに?」
 残念そうだったがこれには素直に言う事を聞いて出て行こうとしたノウンを、彰吾が呼び止める。横開きの大型の窓を開けて、雨の降っているベランダに彰吾が身を曝した。
「あったあった」
 向かって左側に置かれている立物。そこに差さっている十数本の傘の内、一本を引き抜いた。
「ほい。傘。俺のだから気兼ねなく使っていいぞ」
『あ…』
 おずおずと、ノウンはらしくない態度で彰吾から傘を受け取る。
『じゃあ、先に帰って待ってるね!』
「ああ」
 返事を聞くと同時、雨の中に身を曝しながら一本の傘を勢い良く開いた。

 雨具を着ていても、雨は堪える。
 途中までの方向が同じな和樹や雄太も同じな様で、普段一緒に帰る事がある時には、自転車の上でもよく喋っていたのに、今日は愚痴しか零さない。
「じゃあな~」
「また明日」
 別れ道で二人と別れて、彰吾は一人、家路に着いた

「ただいま」
 家に入ると、出迎えが二つあった。
『おかえりー、彰吾』
「おかえり、彰ちゃん」
 慣れている母のものと、慣れてない少女のもの。
 彰吾は近くに寄って来るノウンに「馬ぁ鹿」と呟いて、沙希と二言三言交わして階段を上った。

 彰吾は漢方薬を飲んだ後、ベッドに横になっていた。だるい。実は学校でもだるかったが、部屋に戻ると余計にだるい。生乾きの制服のまま授業を受けすぎただろうか。それ位で風邪等感染くほど弱い身体の覚えないが、この所事故に遭ったりして精神面から弱っているかも知れない。
『彰吾、寒くない? お水持って来ようか?』
 無論、一番の原因はこいつである。
 調子悪いと言うとおかしな位に心配してくる。沙希には黙っていたが、同じ部屋に常に居るノウンにまで隠す事は不可能だった。
「ちょっとだるいだけだ。学校じゃ平気だったろうが」
 そう、病気って訳じゃない。言うなれば、いつもの紅茶はダージリンなのに、今日のはアールグレイだって面食らっているみたいな感じ。大した事じゃない。大本、問題無い。
 なのにこいつは。
『ダメ! 風邪は甘く見てると大変なんだよ。ほら、布団被って! せめてあったかくしてないと』
 無理矢理に布団を被せて来る。暑さが、逆に気だるさを助長するんだぞ、これ。
「あのなぁ―――」
 文句を言ってやろうと口を開き掛けたが、ノウンの必死な眼を見ると何も言えなかった。
 ノウンからすれば、自分の所為だと思っているのかもしれない。
 けれど忘れていないだろうか。お前は俺の魂を運びに来たんだろう。看病なんかしても、しょうがないんじゃないか? 
『眠いの、彰吾?』
「ああ…眠い」
 ああ、下らない事を思い出した。何を考えてるんだろうか、俺は。もういいや。寝よう。寝ればこれ位、直ぐ治る。
 唄が聞こえてきた。聴いた事の無い歌。でも、どこかで聞いた事がある歌。心が休まる。ゆっくり、揺り篭に揺られる様に、彰吾は眠りに落ちていった。
 ノウンの謡っている歌。それは魂の子守唄。

『彰吾、寝ちゃった?』
 謡い終えたノウンの言葉に肯定の小さな寝息が返って来た。
『ごめんね、風邪感染かせちゃって』
 心から謝る言葉。起きている彰吾に言えば、きっと怒られる。
 ノウンは起こさない様に、彰吾の寝ている布団の中に潜り込んだ。眠くなかったけれど、そうした。横に寝ただけなのに、何度もやった事なのに、今までに感じた事の無い、ドキドキが胸にあった。顔も、凄く熱い。
『わたしも、風邪感染(ひ)いちゃったのかな…地上の雨で…病気に…ならない…筈…なのに…』
 五月蝿い位の動悸。でも、彰吾の心臓の音に安心して、ノウンもいつしか眠りへ落ちた。

「やっと起きたか、寝太郎」
「…亜紀、今日は早いね」
 木曜は亜紀の所属するお菓子クラブの実習の日だった筈だ。必然、帰りは遅くなる。
 言われた亜紀は、呆れた表情を浮かべた。
「今何時だと思ってんのよ、あんた」
「…七時過ぎてるね」
 彰吾が起きたのは、もう父も帰って来る、夕食時だった。
「そういう事、さっさと下りて来て、皿並べるぐらい手伝いなさい」
「うん」
 ごめん、それは遅れるかもしれない。彰吾は大事な姉に、心の中で謝った。
 弟の返事に、背を向けて出て行こうとした亜紀は訝しげに振り帰った。
「あんた、体調崩してない?」
「惜しい。崩して寝てたけど、今はもう治ってるよ」
 そう、治っている。不思議な位、身体が軽かった。右手が無意識に、両方の原因となったまた潜り込んでいる少女の髪を触る。
『ん~』
 亜紀には分からない少女が、気持ち良さそうな声を上げる。
「ならいいけど。無理はしないでよね」
「ああ。分かってる」
 分かってる。駄目なら駄目って、はっきり言えるさ。だから、俺が無理って言わない限り、俺は平気なんだ。
 今度こそ、亜紀は部屋を出て行った。
「起きろ、お節介」
 大丈夫だって言ってるのに、無闇に心配して。心配を掛けないようにしている自分を無意味にさせて。
『ん~…あ、彰吾。身体、よくなった?』
「元々悪く無いって言ってるだろ。まあ、ダルさは無くなったな」
『そっか。 よかったぁ。よくなってくれて』
 怒りと嬉しさを生まれさせる心配。過剰な心配でも、それならあってもいいと思う。

『彰吾』
 食事も風呂も終え、部屋に戻った彰吾はノウンの話に付き合ってやっていた。その話の中で、改まった声で、ノウンは名を呼んだ。
『彰吾は太陽と月、どっちが好き?』
 唐突な質問。会話なんてそんなものだ。話している内に訳の分からない話になってしまう事は、友達と話していてもよくある。
だから、その質問の意味を深く考える事はしなかった。
「そうだな…月かな?」
『どうして?』
「どうしてって…」
 理由なんてなかった。どうでもいいだろと言ってやる事も出来たが、妙に真摯な雰囲気のノウンに言う事も出来ず、考えてみる。
「そう…だな…太陽は無遠慮に照らしすぎるから、かな。月位が丁度いい。って、これはイメージの話だな」
 実際の太陽が好き月が好きという理由では無い。彰吾自体、月が好きという確固たる理由が無いのだ。次に聞かれた時は太陽が好きと言っているかも知れないし、理由も反転してしまっているかもしれない。
 それでも、ノウンは何故だか喜んだ。
『そっか~。わたしもね、月が好きなんだ!』
「へぇ」
 意外だった。ノウンはてっきり太陽だと思っていたから。
「どうしてだよ?」
 彰吾の問い返しに、ノウンは悪戯っ子の様に笑った。
『彰吾のと似たような理由だよ。ちょっと違うけどね』
 また、意外だった。そんな事を考える様なタイプとは思えなかったから。無遠慮に照らされたくない、月位が丁度いいなんて。
『彰吾、もうそろそろ寝よっか』
「ああ。って、今日も一緒かぁ?」
『いいじゃん。さ、早く寝よ!』
 十一時、明かりは既に消していたからそのままベッドに入った。

 白い法衣の様な服に、穢れの無い翼。金の髪に流麗な瞳は自然に閉じられている。
 何も知らぬ人が見れば、彼は天使と呼ばれるだろう。しかし、彼は似て非なる者。魂の運び人、死神、スティルである。
『不味いですね』
 スティルは表情に変化こそ出さぬものの、心は顰めて呟いた。
 今、この状況を、ノウンに伝えるべきだろうか。いや、そもそも、彼女は本当に気が付いていないのだろうか? 伝える事は簡単だ。送還させ、新たな任務に就かせる事も。
 しかし…
『仮に。他の人間に付かせても…』
 想像しか出来ないが。それでも、その想像は容易に出来る。たらればは詮無き事だが、確信を持って言えた。
『ならば、最期の瞬間(とき)まで、彼女の思うままに』
 束の間空に現れた白き人は、一瞬で魂界へと姿を消した。
 気付いた者は、何処にもいない。






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