この音は聞いた事がある。それも、遂最近に再び聞いた音。耳を澄ますと、違う音が聞こえた。
 バタン!
「彰吾の様子は?」
「あ、お姉ちゃん。お医者さんは心配ないって。只の貧血だって言ってた」
「そうか。ノウンの様子が余りにも大袈裟なので吃驚したんだが」
「ごめんね、お父さん。大事にしちゃって」
「ノウンちゃんは悪く無いわよ。寧ろ付いていてくれてよかったわ」
「お母さん。でも、体調の悪い彰吾に無理言ったの、私だし」
 おかしな会話だ。ノウンと呼ばれた女の子の声は、俺の家族の声の一つ一つに、家族への敬称を使っている。そんな敬称、ノウンは使った事は無かった。
「そうね。でも、それを怒るのは彰吾よ。大事じゃないんだし、あたし達が騒いでもしょうがないでしょ?」
 小事? あれだけ血を流して? そんな筈は無い。躊躇いも無く深く脈を切った。死んでいなければおかしい失血量なのに。
 心とは関係なしに、彰吾の思い瞼が上がる。白い病院と一目で分かる天井。
「あ、彰吾、起きた?」
 ピ、ピ、ピ、と音が聞こえる。魂とはそんな音がするものなのだろうか? いや、違う。
 ノウンの小さな顔が、真上から彰吾の顔を覗き込む。
「な…え、ノウン?」
「そうだよ、どうしたの、彰吾?」
 ノウンは彰吾が起き上がる邪魔にならないように身を引いた。彰吾は重い身体で出来る限りの速さで上半身を起こした。
「ノウン、お前、何とも無いのか?」
「? なにが?」
「何がって…」
 死に掛けてた筈じゃ…漏れ掛けた言葉は直前で止まった。余りにも、信じ難い状況に。
「彰吾、何か変な夢でも見たの? 彰吾、今どうなってるか分かる? 私が無理に連れ出した所為で、彰吾倒れちゃったんだ。ごめんね」
 後半の謝罪なんて、彰吾の耳には届いていない。夢。あれが夢? そんな筈は無い。
 家族が掛ける声に無意識な相槌しか出てこない。これは現実なのだろうか? 現実なら何故自分が生きているのだろうか? 何故、自分が生きている状態でノウンが生きているのだろうか? 奇跡でも起こった? けれど仮にそうだとしても、何故ノウンが亜紀や母さん、父さんを家族の敬称で…分からない。訳が分からない。まるで現実に感じられない。いや、現実に感じられないそもそもの始まりは、死神だと名乗るノウンが来た所からじゃないのか。昔からノウンは家に―――え? 何だ、この記憶?
 混乱、困惑、思考の混迷。記憶がおかしい。頭が変になってしまいそうだ。そんな彰吾を救ったのは、白い法衣をはためかせたブロンドの、肖像画から抜け出したかの様な天使だった。いや、違う。彰吾は彼が天使でない事を知っている。
『お静かに。ここで声を上げては要らぬ心配を掛ける事になりますよ』
 彰吾は上げ掛けた声を、寸での所で飲み込んだ。
『受け答えの心配は要りません。私が意識すれば強制的に心を読む位簡単な事です』
 余り歓迎されたい行為ではないが、今は有り難い。遂さっきまで堂々と声に出していたのが嘘の様に、今は黙秘での会話が有り難かった。
『見え、聞こえるのですね。やはり』
 ―――ああ、そうだよ。何なんだこの冗談みたいな状況は?
『ハッピーエンド、という説明では、到底納得しかねるでしょうね。先に言っておきますが、ハッピーですらありません』
 ―――俺が選んだ運命よりはマシそうだけどな
『でしょうね。そして、運命、ですか。そうですね。ここでその言葉が出るという事は、やはりノウンと惹かれ合うのは必然だったのでしょうね』
 ―――話が見えない。というか、ノウンは会話に参加していないのか?
『…彼女には、私がもう見えていないのですよ』
 ―――!!
『正確には、死神ですら無くなった、というべきですね。彼女は最早只の人間です』
 ―――本当か、それ…? いや、ホント、なんだろうな
『先程、貴方は運命という言葉を使いましたね。あれは実に的を得ている発言なのです。何故ならこの現在は、彼女が捻じ曲げた運命なのですから。彼女の特有の能力、私達が固有体系と呼んでいるそれを、彼女は持っていました。運命という名の、特殊体系をね。だからこれは、彼女の望んだ運命、それを実現させた現実ですよ』
 ―――そんな事が…
『私も、俄かには信じ難いのですが、彼女は未知数なのです。何が起きても不思議は無い。精神論的な言い方は説得力に欠けるので説明に使うのは嫌いなのですが、貴方が死んだ事に対する感情の爆発と彼女の能力(ちから)とが反応した、とでもするのが一番妥当でしょうか?』
 ――――――
『しかし、そんなに全てが願い通りの運命など作れはしない。未知数の彼女でも、未知数故に不可能だったのですよ。貴方ももう、気付いているでしょう』
 ―――二つ、だな
『その通りです。一つは、貴方の感じている通り彼女の記憶。死神だった記憶はありません。当然、貴方と過ごした日々も。彼女の貴方への想いは兄へのものと余り変わりません。ちなみに、そろそろ新たに思い出しているでしょうが、彼女は親族全てが亡くなっており、彼女の父親と友人だった貴方の父親が引き取った、という運命になっている筈です』
 ―――ああ、現実味の無い記憶が新たに刻まれてるよ
『兄妹でなかっただけよかったですね。戸籍上も、義妹とはされていませんよ』
 ―――抜かせ
『貴方は耐えられますか? 想いを通じ合わせたのに、人間の文句の、死が二人を別つまでもなく、一方的に忘れられられるなどという事に』
 ―――地道に努力し直すよ。好きにさせてみせるさ
『ええ。分かっています。それに、今言った事は貴方さえ話しを合わせれば済む事です』―――問題は、もう一つの方
『ようこそ、とでも言って差し上げるべきでしょうか? 半人の半死神、秋原彰吾』
 ―――本来ご遠慮願いたいんだがな
 心の中でまだ総轄者であることは愚か、名前すら知らない死神の祝詞の言葉に、苦笑で辞去を申し出る。
「んじゃ、大した事もなかったし、退院していいんですね。先生」
「ん、ええ」
 突然はっきりした言葉を返されて、担当してくれた医師は意表を衝かれたようだった。うっかり適当な相槌を打っていた所為で検査入院させられるところだった。
「彰吾、大丈夫? 身体、まだ悪いんじゃない?」
 ベッドから降りた彰吾を心配そうに上目遣いに見上げるノウン。ノウンは捻じ曲げた運命の中でも蒼い眼、蒼い髪。そして、彰吾が買ってやった筈の服を着ていた。
 彰吾はポンと、室内なので帽子を脱いでいるノウンの柔らかな髪越しに頭を親しみを込めて叩いた。
「大丈夫だって。それより、遊園地行こうぜ」
「え?」
 まだ時間は午前十時四十四分。決意を果たしてから、三十分しか経っていない。こっちでも、行き先は遊園地の筈だ。
「で、でも」
「いいって。券は持ってんだろ」
「う、うん」
 カーディガンの、唯一シースルー素材でないポケットから取り出して彰吾に見せる。
「ならさっさと行くぞ」
 ノウンの手を引っ掴んで、周りの制止の声も聞かずに病室を飛び出して行った。
「わわっ。彰吾、病院は走っちゃいけないんだよ~」
 違反を指摘しつつも、笑顔の、楽しそうな声。彰吾の知っているノウンと同じ。けれど、彰吾の想いは知らないノウン。白い死神に言った言葉に強がりが無かったといえば嘘になる。きっと、あいつもそれ位は見抜いているだろう。けれど、きっと諦めない。ノウンに彰吾以外の好きな人間が出来でもしない限り、彰吾は気持ちを譲るつもりはなかった。
「お詫びに今日は全部俺のおごりだ! 何でもかんでも買い食いしてオーケーだぞ」
「ホント! わぁい! 彰吾だーい好き!」
「お前は幼児かっての」
「うぅ~ホントなのに~」
「はいはい。有り難く受け取ります」
「よろしい」
 兄妹も同然の会話。
 苦痛ではない。焦り過ぎる事は失策でしかない事を、彰吾は知っている。
 それに何より、また生きて会話出来る事が嬉しかった。
 絡めた指から伝わる体温があたたかかった。
 身体は人で、魂は死神の彰吾に普通の生活が戻る事は、もう無いのかもしれない。
 しかしそれよりも、この異常な生活に感謝した。






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