少女は宙を翔けていた。速く速く、遠くへ遠くへ。少女は逃げていた。
 止まる事を拒否し、一歩でも離れようとしていた。
 けれど、そんな行動がいつまでも続く筈が無い。限界が来て、少女は地へ降りた。墜落するまで走りたかったけれど、それは出来なかった。計算からではない。今来ている服は、地上の物。そんな勢いで落ちればボロボロになってしまう。折角彰吾に買ってもらった、この服が―――そこまで考えて、ノウンはブンブンと首を振った。
 否定、拒絶、隔離―──
 そう心に言い聞かせても、離れる事は無い。一度囁かれた最上級の魔法は、決して消えない。
 何より、望んでしまっている自分がいた。
 膝を抱えて、座り込んだ。涙は流さない。泣いてもどうにもならない。自らが招いた責を泣いて、誰に擦ろうというのか。
 夜の街。車が行き交う交通路。歩いている人間もチラホラと、喧騒は少女を嘲笑うかの様だった。
 最初は単なる固執だった。魂を今度こそ運ぶと。次は、彰吾自身に興味が湧いた。家族みたいだった。兄はいないが、いたらこんな感じだと思った。スティルも兄みたいな感覚だったけれど、それとはまた別の、素直じゃないけど優しい兄。
 そうだったのに……
 泣いてしまいそうになって、ノウンは必死で堪えた。今泣く事は、即ち彰吾への侮辱だ。泣く訳にはいかない。それでも、涙は溢れて来てしまっていた。
『ごめん…ごめんね、彰吾』
 謝りながら涙を流す。謝るのは泣いたことに? 彰吾を好きになってしまったことに? それとも…好きだったのに断ってしまったことに?
 謝罪。嗚咽交じりの、自分から逃げた存在に対する、止め処ない謝罪。
 無意味だろう。滑稽だろう。しかし、謝らずにはいられなかった。
 気持ちを楽にしようなんて考えてる訳では無い。そんな打算的な謝罪では無い。もっと清んだ、ピュアな謝罪。謝りたい、その一心。
 最早それは、強迫観念にすら近かった。
 泣いて泣いて、蒼い眼を真っ赤に腫らせて謝って。やっと、一つ止められたノウンはフラフラと立ち上がった。ともすれば、また堰を切ってしまいそうな不安定な心。一通り泣けば、多少は開き直れるものなのに。素直すぎる故の、弊害だった。
 雑踏に紛れる。姿は誰にも見えていない、地上では当たり前の孤独。最近は忘れていた孤独。ノウンは片手に袋を提げたまま、よろよろと行く当てもなく歩いていた。

 どれだけ歩いただろう。月の加減から言って、四時間や五時間は歩いたのかも知れない。時間の感覚が麻痺している。わたしは辿り着いた何処かもしれない公園のベンチに仰向けになった。
 座ったりしない。泣きそうになるから。だから、常に上を向いていられる姿勢になった。
 月が照らす。太陽ほど明るくない。明るくないけど、無遠慮に照らす太陽より、わたしは好きだった。彰吾も、そう言っていたっけ。
 あの時は、ちゃんとした理由は、言わなかったな。
 照れ臭かったし、寂しくなる理由だから。
『月なら、わたしも照らしてくれるのかな?』
 月なら、優しく照らしてくれる月なら、異端の死神も見付けてくれる様な気がしていたから。
 そんな事をあの時言っていたら、君はどうしたかな? らしくないって、笑った? 湿っぽくするなって怒った? 意外だなって、感心した?
 分からないけど、何となく分かる。
 ―――くぅ~ん…
 何かの鳴き声がした。弱々しい、小さな声。跳ねる様に起き上がったノウンはその声の元に向かった。
 向かった先には、小さな子犬が居た。
 ノウンを見つけたからか、最初に聞いてから聞こえなかった弱々しい鳴き声がまた聞こえた。
『お前…もう…』
 死に掛けだった。通常、地上の生物は死神を見る事は出来ない。唯一見ることが出来るのは、死に近しい者。つまり、もう直ぐ死ぬ存在。
 子犬の身体を抱き上げる。痩せこけて、只でさえ小さな身体がもっと小さくなっている。骨と皮だけに近い。
『助けて…あげるね』
『ちょっと待ちなさいよ』
 そっと、ノウンが未だに一人として魂を運ぶ事が出来ていない要因となっている能力を使おうとした所で、頭上から声がした。
 緋色の髪をして眼は黒。宙を浮いていて、一目で人間では無いと分かった。勿論、ノウンはそんな外見、宙に浮いているなんて関係無く、彼女が何者か分かった。
『あんた、同業者でしょ。何しようとしたの?』
 死神。魂を運ぶ者。
『助けてあげようとしてるんだよ』
 ノウンは悪びれも無く、威圧的な彼女の態度に一切臆す事無く言った。
『だって、まだ生きてるんだよ。まだ、まだ生きようとしてるんだっ!』
『あのねぇ。そりゃ確かに、可哀想かも知れないけど、死ぬ事は生物が生まれた時から決まってる事なのよ。助けてあげたいで助けていい事じゃないのよ』
 緋髪の死神は呆れた表情で諭す。成程。彼女の言う事は尤もだ。死神にとっての常識でもある。
『わたしが助けたい。間違ってても、助けたいんだもん』
 しかし、それは常識であって、個人の思想とは関係無い筈だ。
『それにわたし、可哀想だなんて思ってない。そんな事思うほど、わたし自惚れて無い』
 キッと見返す蒼い瞳。その瞳を見て、緋髪の死神は、少女の存在に思い至った。
『もしかしてあなた、任務を果たさず助けてばかりいる…えぇと…』
『ノウン』
 彼女の言葉を自ら引き継いだノウン。
『そう、そうだった。へえ、何だ、想像と違うな』
 緋髪の死神は小さな呟きを漏らす。噂ではもっと明るい、能天気な子で、憎めない性格をしていると言われていた筈だ。実際、憎めるような雰囲気は持っていないが、能天気には程遠い、信念や理知といったものを持っている様な気がする。
『でも、どっち道無理ね。多少私達が治療や生命力を分けた所で、その子はもう弱りすぎてる。残念だけど、もう死ぬしかないわ』
『じゃあ、やってみて、助かっても文句は言わない?』
 ノウンの問いに、
『まあ、ええ。いいわよ。そう報告するわ』
 勢いに押されたのもあり、緋髪の死神はあっさり首を縦に振った。

 ノウンが子犬を包み込む様にして抱く。緋髪の死神は、どうせ生命力の無駄遣いになるだけなのにと思いながら、あの問題児ノウンの取る行動に好奇心を抱いていた。ワクワクといった気持ちも、半ばあった。あの治療不可能な状態から、一体どう捻じ曲げるのか。
 子犬を中心に光が灯る。一つ一つの光は決して大きくは無い。星の様な光だった。
(へぇ…)
 綺麗だな。緋髪の死神は素直にそう思った。
(これがこの人の陣形か)
 死神は大きな力を使用する際、イメージを用いる事が多い。俗にそれを陣形という。このイメージを用いた方が、力が扱い易いのだ。
 星同士の光が繋がり、一つに収束しつつ子犬に落ちた。

「クゥ~ン…ハッハッ」
『信じらんない…』
 緋髪の死神は頭を抱えたくなった。あの死に掛けの子犬が生気を取り戻し、肉付きもよくなり、元気に走り回っている。冗談にも程があった。
『あんた…どんな無茶したのよ…』
『無茶なんて…してないよ』
 有り得ない。通常有り得ない。こんな事が出来るのは各隊長クラスの力が必要だ。いや、彼らのとも少し違う様な気がする。彼らは生命力を与え生かしたりは出来るだろう。状態として、これと同じ事も出来る筈だ。
 しかし、よく考えてみれば、ノウンは病気や衰弱といった類以外の場合でも任務に失敗している。そう、即死に至る可能性がある事故死の人間だろうとなんだろうと。
 これはどういう事だろうか。
『まさか…』
 一つだけ、彼女は思い当たる事があった。それはもう自分達の姿が見えていないであろう子犬を見詰めている小柄な少女からは、想像も出来ない結論だった。
『あんた特系、持ってんの?』
 特殊体系。名前から想像出来るように、特別な力である。ディイスの死を予見する能力も、予見視という閻魔には必要不可欠な特殊体系だ。
 しかしこの特殊体系、昔は生まれながらに持っている者も多かったが、ここ数千年は修行をし、修行をし、何千年と生きた者ですら修得出来得ない境地。
 今現在持っている者はディイスと、総轄者のスティルしか居ない、稀少な能力。しかもノウンの特殊体系は恐らく―――運命。運命を捻じ曲げる能力。
 この推察が事実ならば、震えが来る。
『うん』
 ノウンの返事は、肯定だった。
『はぁ…成程ね。全く、ふざけた能力だわ』
 ディイスの予見視、スティルの知識の書、そのどちらをも遥かに凌ぐ特殊体系。それを当たり前に使いこなせる、自分より百も離れていない年上の少女。呆れるには充分過ぎるほど材料が揃っている。
『あ、そうだ。えっと』
 名前を呼ぼうとして、ノウンは彼女の名前を知らない事に今更ながら気付いた。抜けている。
『ヒミ。名前。ヒミでいいよ』
 外見は年下でも、百近く年上なのだから変にさん付けでもされては堪らない。
『ヒミ』
『そ』
 確認する様に名前を呟くノウンに頷く。
『それで、ヒミ。あの仔の事だけど』
『分かってるって。あんたが賭けに勝ったんだから、ちゃんと報告しておきますよ』
『うん』
『ああ、ところで』
 本来、ヒミはもう地上に用は無い。今直ぐ帰って報告するところではあるが、その前に、一つだけノウンに忠告しておく事があった。
『さっきの、もう使わない方がいいと思うわ。元々の生命力の高さや才能でカバー出来てるんだろうけど、実際、身体ガタガタなんじゃない。魂、一度も運んで無い状態でまだ生きてる、それ自体に驚嘆するわ』

 公園のベンチで、ノウンは服が皺にならない様に気を遣って、横になっていた。
 ボーっと空を見ながら、ノウンは考えていた。ヒミの言った言葉は的確で、痛かった。特に、最後に言われた言葉は抉った。
『今貴方が任務に付いてるのが誰だか知らないけど、違う任務に行った方がいいんじゃない? 期限過ぎてるって聞いてるわよ』
 そう、もう彰吾は、きっと死なない。死ぬとしても、邪魔せずにいられないとは思えない。だったらいっそ、新しい任務に就いた方が賢い筈なのだ。言われなくても知っていた。気付いていた。…出来なかった。
 でも、今なら出来るだろうか? 魂世界に帰って、スティルとディイスにお叱りを受けて、新しい任務を貰う。何だ、簡単なことじゃない。
 簡単。簡単なこと…けれど、果たして自分に他人の命と自分の命を天秤に掛ける事は出来るだろうか。
『出来ない…』
 出来ない。それは出来ない。きっと無理だ。仮に出来ても、そんな事をした自分を誇れない。何より、何より彰吾に会えない。そんな事をしては、彰吾に合わす顔が無い。彼は軽蔑はしないだろう。仕方なかったんだとも言ってくれるかも知れない。彰吾は優しいから。だけど…
『…バカみたい』
 自分から離れて、自分から求めて。なにやってるんだろう、わたし。
 けれど、バカみたいな願いが一つ。
『会いたいよ…彰吾』
 手で隠した瞳から、雫が一筋、垂れた。

「呼んだか、この無鉄砲」

 何だろう。声がする。聞き慣れた、彰吾の声だ。
 反応して、ノウンは横になったまま呆然とするしかなかった。
 見慣れた顔。抱き付き慣れた体躯。
 焦がれた存在が、そこにあった。
『えっあっなっ』
 動揺で呂律が回らない。幻覚じゃと心が疑心する。でも違う。全部知っている姿で、こんな深夜に歩く為に着込んだ知らないコートが、逆に本物だと思わせた。
「ったく、捜したんだからな」
 悪態と共に安堵を吐く。無意識の内に身体を起こして、ノウンは当たり前の事を訊ねていた。
『彰吾?』
「それ以外の何に見える? それとも、お前にはフッた男は一山幾らと同じか?」
『ち、違うっ』
 意地悪く言う彰吾に、ノウンは嬉しさや悲しさや寂しさが込み上げて、泣いてしまいそうになりつつも、耐えていた。ここで泣いては、きっと取り返しが付かなくなる。いや、泣かなくても、きっと付かないだろう。なら、望む方に。わたしが望んだ方に行った方が、ずっといい。
 彰吾はノウンが身体を起こして出来たスペースに座り、
「ほら。寒くないかもしれないけどあっためとけ」
 コートのポケットから缶を出してノウンに投げて渡した。
『熱っ。アチチッ』
 ホット缶だった。手の上で缶が踊る。彰吾は平気な顔で、自分の分の缶を開けた。左手で持って右手で開けるのが、彰吾の癖だと、何度か見てノウンは気付いていた。
 彰吾は熱い液体を躊躇いなくグイッと一息で飲み干す。
『熱くないの?』
「さあ?」
 大した気も無い返事。
『彰吾、ちょっと手、見せて!』
 気掛かりになって、彰吾の手を掴む。ひんやりと、あたたかさが欠けていた。ホット缶の熱さが、僅かに残っているものの、氷塊に蝋燭だ。
『冷たい…どれだけ外に居たの?』
「三時間は…過ぎてるな」
 公園の時計を見て応える彰吾。夜は蛍光で幻想的に光っている。
『もう冬も近いんだよ! この季節この時間にそんなに長く夜外にいたら風邪じゃ済まないかも知れないんだよっ!』
「そんなにがなるな…」
『がなりたくもなるよ!』
 普段なら、彰吾も憎まれ口の一つも返しただろう。おまえは俺の魂を運ぶんじゃ無かったのか、とでも。今は、そんな事、とても言う気にはなれない。
「まあそれは置いといて」
『置いちゃダメだってば!』
 尚も言い募るノウンを、彰吾は無視した。
「あのさ、答え、聞いときたいんだけど。答え次第で、それなりに扱うから」
 ピタリと、ノウンのマシンガンが止まる。
『答えっ、て…』
「一世一代の告白の返事。一度したら吹っ切れたから、何度でも言ってやろうか?」
『あ…うぅん…いい』
 首を横に振るノウン。
『それで…それなりって?』
「答えがいいものじゃない場合、出来る限り、お前の希望に沿う範囲で接してやるって事。自信ないけどな。高校生ほど盛ってる訳でもなく、社会人な程落ち着いてる訳じゃないから」
『ッサカッ…』
 顔を紅くする。毎晩無防備に一緒に寝ていたくせに、意味は知っているらしい。
「で、どう、何だ?」
 常の表情でなく、照れた様な、窺う様な表情で上から覗く彰吾。
 ノウンは、言葉を返す前に、
『一つだけ、先に聞いてもいい?』
「何?」
 彰吾は少しだけ気の抜けた様な表情で、問いを促した。
『わたし、人間じゃないんだよ』
「ああ、知ってる」
『祝福なんてされないし、寿命だって違うんだよ?』
「そうだな。その時には、お前が辛いかもな」
 違う。違うっ! 聞きたいのはそんな言葉じゃなくてっ!
『彰吾は!? 彰吾はどうなのっ!?』
 悲鳴にも近い声で訊ねられた言葉に、彰吾は当然と、
「あのなぁ。そんな覚悟も無しに、好きだって言ったとでも思ってるのか? まあ、そこまで分かってて告白したのは、ガキだったかも知れないけど」
 もう、限界だった。
『彰吾っ…! しょうごぉ…』
 狭いベンチの中で抱き付いて、必死に愛しい人の名を呼ぶ。
『しょうご…ごめ…ね…すきに…なちゃっ…て…』
 途切れ途切れに思いの丈を伝える。背中に回された手が、直接心を撫ぜる。
 彰吾の胸の中は冷たかったけど、あたたかかった。
 彰吾が回しているのとは逆の、左手をノウンの顎に添える。呼吸をするよりも自然に、月夜の中でわたし達はキスをした。
 優しい月に照らされて、大好きな彰吾と―――






BACKTOPNEXT