八月も半ば。成虫となった蝉は短い生命を文字通り謳歌し、太陽が一年で尤も照り付け、サボっていた学生はそろそろ夏休みの膨大な量の宿題と真摯に向き合わねばならない頃。過ぎ行く夏を惜しむよりも、街は迫り来る夏最大のイベントに心を躍らせていた。
 それは例年通りやって来る。誰かにとってはいつもと違う。
 ゆらりゆらりと蝉時雨。ふらりふらりと夏祭。
 今年も祭の季節がやって来た。


 午前十時四十二分。時刻を確認した貴明は、暇潰しに取り出していたゲームの電源を切りった。貴明が彼女である郁乃と、友人であり郁乃の姉である愛佳を迎えに行く予定時刻は、昼食を会場で済ます為午前十一時三十分。今から出ては少々どころかかなり早い。
「く…ぁ」
 貴明は一つ伸びをした。心が浮き足立って暇潰しの格闘ゲームが逆に苦痛にすら感じる現状。彼は何かいい案はないものかと考える。時間が過ぎるのを待ち遠しく思っている頭で有益な思考が出来る筈も無く、電話を一本入れて今から迎えに出てもいいか訊ねてみようかという、予定を早める交渉を考え始めていた。
「お母さん、早く早く!」
「はいはい、今行くわよ。それよりこのみ、今日の履き物でそんなに動くと危ないわよ」
「だいじょうぶだいじょうぶ! ちゃーんと計算しているんだから」
「嘘おっしゃい。数学の成績、学年平均以下の癖に」
「お母さん! そんな事大声で言わないでよぉ!」
 よく通る隣の母子のこのみと春夏の声。今年は春夏さんも行くのかと、貴明は軽く驚きを露にした。
 このみの母の春夏が祭りに向かう姿を貴明はトンと見ていない。その春夏が祭りに行くとは、今年は何かあるのだろうか。小さなところでは自分がこのみや雄二と別々に祭りに行く事がそも例年とは違うのだが、それは関係ないだろう。等と、貴明は間抜けな事を考える。
 全く貴明といいこのみといい、春夏が娘に空いた幼馴染の穴を埋める為に今年は買って出たと言うのに、当人二人は呑気なものだ。
「お~い! このみ、春夏さん、いってらっしゃーい!」
 貴明が窓を開けて二人に呼び掛ける。このみが向けられる方が嬉しくなる様な表情で貴明に手を振った。
「いってきまーす! タカくんもがんばってね~!」
 その横で春夏さんが何とも複雑な表情をしていたが、それを一瞬で消してこのみと同じく貴明に一声掛けて手を振った。
「タカくん、折角だから浴衣ぐらい着て行きなさい。郁乃ちゃんは着ていくらしいんだから」
 春夏の知っているのは勿論このみからの伝聞である。何やらこのみが春夏に抗議を始めた。
 貴明の聞き取れないこのみの抗議内容は、機密内容の漏洩についてだった。郁乃に貴明には秘密にしておく事を条件に教えてもらったのだ。
 このみは抗議もそこそこに、春夏と並んで神社へ進路を取った。
 貴明はその背中を見送りながら、二分ほど黙考して、去年用意だけはされていた浴衣の尺が合えば着る事を決めて窓を閉めた。
 幸運なのか残念なのかは分からないが、浴衣は合ってしまった。元々一年ぐらいで着れなくなる代物でもないので当然と言えば当然であるが。
 貴明は着慣れていない浴衣に苦闘し、何とか手足を通して帯を締めた。姿身を見る。何とか格好の付く形にはなっている。
 こうなって来ると徹底したくなるのが人間で、貴明は下駄箱から祭に相応しい履物を探す。キッチリ見つけた。足のサイズはもう成長しなくなって久しいだけにピッタリだった。
 時計を見る。いつの間にか十一時を少し回っていた。
「よし、行くか」
 貴明は財布の確認も終わり、脚を踏み出し掛けて冷静に自らの服装を観察する。陽も高いこの時間、この装備で街を歩くのは恥ずかしい。
「ええい、気にするな。二人が浴衣なら、俺だけ普段着で居心地悪いよりまだいい」
 貴明は拳を握り直して気合を入れ、改めて玄関を開けた。
 玄関に鍵を掛けた貴明は、小牧家までの道筋に繰り出した。


 恋人である貴明が家を出て十分ほど経った頃、郁乃は自らの着付けを終えていた。浴衣等着た事の無かった郁乃であるが、姉と母から着付けを教わって、ここ数日練習したお陰で一人で手早く着る事が出来た。
 見た時計は十一時十四、五分。まだリハビリと投薬は続いているが病院暮しから家で生活できるようになって大分自分の色が出て来た部屋に引っ込むか、それとも玄関に近いリビングで待つか一秒考えて、郁乃は姉がいるであろうリビングで待つ事にした。
 小牧家の生活の歯車に組み込まれた郁乃が杖を着く音。それを聞き取ったのか、郁乃が移動する前にパタパタと姉の足音が近付いて来た。着付けは出来ても着慣れていない浴衣で走って転ばなければいいけど。
「郁乃、一人で着れた? うん、だいじょうぶ、かわいい」
 走りながらの姉の問い掛け、後半は浴衣を着ている郁乃を見て。
「あれだけ練習したら普通には着こなせるわよ」
「そうだね。たかあきくんもきっとかわいいって言ってくれるよ」
 にっこりと微笑む姉。からかいがないだけに単なる冷やかしなら跳ねつけられるがこれは恥ずかしい。
「たかあきは関係ないわよ。あたしが着たかったんだから」
 まあ、姉の言った事は強ち外れてもいないだろうが。貴明の反応は秘密にしていた事から最初は唖然。で、その後にやっと感想というところだろうと郁乃は考える。
「お姉ちゃん?」
 郁乃は自分の前で足を止めている姉に、いつまで廊下に居るのかという含みを持たせて姉を呼ぶ。
「…本当に良かった。あたし、郁乃とお祭行きたかったから」
 姉の、涙こそ流していないが嬉しさから来る泣き笑いの様な表情に、郁乃は吐息一つ。
「…それはこっちの台詞。あたしだって、お姉ちゃんとお祭に行きたかったんだから」
 見ている事しか出来なかった、買ってきてもらう事しか出来なかったお祭。祭の日に丁度郁乃の体調が仮退院出来るぐらいまで戻る偶然は無かったのだから。
 惜しむらくは今年の祭が平日であることか。出来れば両親とも行ってみたかったが、そこはその分今年出来た恋人のたかあきに埋めてもらおう。


 視界に小牧家が見えてきた頃、貴明は腕時計で時間を確認する。長針が5に重なり掛けていた。このぐらいの誤差は許容範囲だろう。
 玄関の呼び鈴を鳴らすと、十秒待たずに誰何も無く扉が開けられた。
 出て来た二人は春夏の通達通り浴衣姿であった。
 郁乃は落ち着いた山吹の暖色に、季節感は外れているが桜の花柄。
 愛佳は白に疎らな笹柄という、清楚で簡素な装いだった。
 二人とも自分にあった浴衣を選び、よく似合っていた。貴明は身構えが出来ていた心で呼吸三回、感想を口にした。
「うん、可愛い」
 それは口にした貴明も驚くほどに自然に空気を振るわせた。
 郁乃が怪訝そうに形の良い眉を上げる。
「あんた、何か悪いものでも食べたんじゃない? アイス屋の抹茶オレンジとか」
「食うか!」
 罰ゲームにしか使えない代物を、好き好んでこんな日に食べるほど貴明は酔狂では無い。
「じゃあ、このみに浴衣の事聞いてた?」
 貴明の浮かべた表情に驚きの類は無かった。数瞬唖然としていたのは見惚れていたからだ。浴衣を着ている事を当然と受け止める思想の持ち主かは知らないが、このみの話を聞く限り、貴明自身は浴衣で祭りに赴いていたのは小さな子どもの頃だけだったそうだ。
「いや、春夏さんに教えてもらった」
 郁乃の疑念は貴明の回答であっさり解消された。春夏とは何度か会った事もある。このみに話した時点で充分有り得る事態だった。恐らく春夏が気を利かせたのだろう。貴明にか、自分たちにかは知らないが。
「たかあきくんも似合ってるよ、その浴衣」
「そうかな?」
 嬉しさ半分不安半分といった体で貴明は自分が着ている服を改めて見下ろしている。貴明が着ている浴衣は藍色に菖蒲の柄。郁乃にも似合っている様に見えた。
「ね、郁乃? 似合ってるよね」
 姉が振るので郁乃は回答を一捻り。貴明に仕返しをしてみる。
「そうね、カッコイイんじゃない?」
 郁乃はからかいの色を覗かせて。
「サンキュ、素直に喜んどくよ」
 けれど思っている真実は、正しく貴明に伝わったらしい。
「じゃあ行こうか、祭」
 貴明が玄関を潜り、玄関内にある車椅子の持ち手を取ろうとする。
「ああ、今日それ要らない」
 郁乃が手による仕草付で貴明の申し出を辞退する。
「じゃあ、どうやって行く気なんだ?」
「そうだよ、郁乃。境内は兎も角、道中はまだ車椅子の方がいいよ」
 愛佳も危険な可能性があるこの件に付いては心を鬼にしているのか、心苦しそうな顔をしつつも郁乃の発言を批判した。
 が、郁乃は二人の態度を何処吹く風といった風に、玄関から出ていた身体を敷居内に戻し杖を物置き場に入れた。
「たかあき、来てくれる?」
 今度の手の仕草は招き。貴明は車椅子の持ち手を離した。
「何悪巧みしてるのか知らないけど、駄目だと思ったら道中は車椅子で我慢してもらうからな」
 言いながら貴明は履物場の広くない空間を郁乃の前まで移動する。
「大丈夫よ、多分問題ないから。っと」
 止まった貴明との脚の距離は五十センチ内外。手を伸ばせば当然届く距離。郁乃は無防備ではないが大きな警戒はしていない貴明の左腕を両手で抱き込み凭れ掛かった。
「「な、な、な」」
 声が二つなのは愛佳も郁乃の行為に驚いたから。
「これなら転ぶ心配は無いでしょ? 体力の方はそっちがあたしに合わせばいいんだし」
 唯一、郁乃だけが平然としている。髪紐で纏め肩の前に流している郁乃の髪が背後へ流れた。
「だ、ダメだよ郁乃、たかあきくんに無理言っちゃ」
「あ、いや、俺はまあ恥ずかしさを我慢すればいいんだけど」
 自軍と思っていた貴明の裏切りに、愛佳が向けられた方が否応無く悪い気にさせられる視線を向ける。
「折角のお祭だから白けさせたくないの。特別扱いもされたくないし」
 頭の上のやり取りに、郁乃がポツリと心根を零す。
「こうやってればバカップルで済むでしょ。体力の方は、さっきも言った様にお姉ちゃんとたかあきが合わせてくれたらいいし」
 さっきまでの態度が一変。汐らしい事この上ない。
「で、本当のところは?」
 貴明が郁乃の耳元で小声で訊ねる。流石は恋人、よく分かっている。郁乃は余計な事を言うなという意思表示に貴明の足を踏もうとして、お互い下駄である事を思い出し、姉の死角で手の甲の皮を抓る事に変更した。
 勿論、郁乃は祭に来ている人間に気を遣うなどという考えは微塵もない。特別扱いされたくないのは本当であるが、車椅子のままで貴明とデートした事は何度だってある。では今回に限って何故なのかというと、このみの伝で知り合ったよっちとちゃるの発案が面白かったからである。言葉とは裏腹に心の内は自分本位から。全く素晴らしい演技力である。
 愛佳は郁乃のそんな姿に心を感銘たれたらしく、「仕方ないなぁ」と意見を折った。
「でも、絶対に無理はしないこと、いいね?」
「うん、分かってる」
 郁乃は姉を偽りの弁論で見事説得する事に成功した。
 貴明が郁乃の頭に左手を乗せ、撫でる様に見せかけぐりぐりと掌を押し付ける。それでも撫でられている事に違いは無いので、郁乃は快、不快の両方の感情に顔を歪めた。
「それじゃ、今度こそ行こうか。お前が決めたんだからちゃんと掴まってろよ」
「当たり前でしょ。あんたこそ、か弱い乙女に歩調合せなさいよ」
「分かってるよ。お前に怪我させたくないのは俺も一緒なんだから」
 もうちょっと柔らかい物言いで会話出来ないものか。けれど、憎まれ口の中で郁乃は貴明を信頼し、貴明も郁乃を言葉以上に大切に思っているのがよく分かる。少なくとも、郁乃の姉で将来の貴明の義姉には。
 この、貴明が高性能の杖作戦で一番割を食っているのはもしかしたら彼女かもしれなかったが、愛佳はそんな事まで考えなかった。


 境内は年に数回あるイベントのお陰で人気は普段とは比べ物にならないレベルになっていた。しかもまだ昼。今は自転車が駐輪場からあぶれる事無く止められているが、最高潮に達する夕方から夜にかけては、マナ悪の自転車が鳥居の前で溢れるだろう。
「神社に来て一番にやるのはやっぱり賽銭だよな」
 祭に来ると普段信心深くなくとも何故か賽銭しなくてはいけない気になる。
「入場料みたいなものね」
 郁乃の感想は中々どうして掣肘かもしれない。
「じゃあ、まずお賽銭から」
 愛佳も一番の行動は神様に許可を貰う派だった。
 三人は鳥居で会話中は足を休ませていたが、行き先が決まると本殿への道をゆっくり歩きだした。露店のおっちゃんに、やはり貴明と郁乃の腕組は冷やかされた。
 照れ臭そうに頬を掻く貴明の横で、郁乃は目に付く露店一つ一つを眺めていった。
 食べ物はくじ引きハンバーグ屋にたこ焼き、フランクフルトと言った食べ歩きの簡易食から、おやつにはルーレットわらび餅や、郁乃に感慨はないが昔懐かしのベビーカステラ、更にこんな機会でなければまずお目に掛かれない事は知っている綿飴等が並び、景品付遊具は定番の金魚すくい、輪投げ、ここには昔からあるらしいが案外珍しいらしい射的、そして昔に比べて少し商品がしょぼくなったと言われるくじ引き等並んでいた。
 これらはほんの一部で、郁乃が目に付かなかったところではヨーヨー釣りや風船屋もあった。竿の貸し出しで鰌釣りまである。林檎飴やチョコバナナを食べている子どもがいるからそれらの店もあるのだろう。
 郁乃は神社に来たのは大分遅い初詣ぐらいしか記憶にないので、改めて祭で賑わうと意外にここが広かった事を知った。広い境内の中を、所狭しと活気付く賑やかさ。知識としては知っていたが、今初めて自らの肌で感じていた。
 正しい参拝にも正しい作法はあるが、三人は神事に関っている訳では無いので鈴を鳴らし賽銭を投げてから二柏手一礼と簡易的な作法で神様に挨拶を済ませた。
「二人とも何かお願い事した?」
 本殿へ上る短い石段を降りながら、愛佳は二人に問い掛けた。
「あ、忘れてた」
「あたしも」
 夏祭りが目的とはいえ参拝は参拝お賽銭はお賽銭。がめつくとも折角だからとお願い事をしていくのが神事に関らない者の常識だ。
「まあ、入場料だと思って」
「あたしも、神様に頼まなきゃいけないほど非現実的なお願い事無いし」
 郁乃の体質完全改善は神様に頼むほどの事では無いらしい。それを例年通り引き続き祈った愛佳は石段を踏み外した。
「っあ」
 貴明が自由な右手を伸ばすが間に合わない。段も少なくなっていたので流石に怪我はしないだろうが、前のめりに地面に打ち付けられる光景を愛佳は想像した。
 が、その光景よりある意味最悪な出来事が訪れた。祭に来て、参拝の石段を上ろうとしている人物にぶつかった。しっかりと受け止められたので転倒はしなかったが、申し訳なさから愛佳の口から平身低頭の謝罪が出る、筈だったが、先に相手が声を掛けて来た。
「とあっ。ふぅ~セーフだったな。大丈夫か、委員長」
「グッジョブ、雄二」
 愛佳と地面の間に割って入ったのは雄二だった。貴明が親指を立てる。
「ここここ」
「にわとり?」
「お約束ね」
「向坂くんごめんなさいき! あぁそれでえっと、助けてくれてありがとうございます! 何か怪我とかそういうのは…」
「無い無い。女の子一人受け止めて怪我するぐらいならとっくに姉貴に殺されてる」
 あのアイアンクローは痛そうだからなぁと、貴明はボロ雑巾になった雄二の姿を思い浮かべる。
「雄二、タマ姉は来てるのか?」
「ん? ああ、祭の表側は町内会だからな。トラブルが起こらない様に姉貴も巡回に参加してる。オレもそれに付き合って小遣い稼ぎ。姉貴の奴、今はこのみ達と一緒に回ってるんじゃねえかな」
 因みに裏側はこのみの友達の山田ミチルの父親達が仕切っている。
「そっか」
「……」
 雄二は貴明に少し苛立った。それは貴明の所為ではなく、厳密には姉の所為であるのだが。一学期中に貴明を落とせなかった場合九条院に帰る予定だった姉が、大学はもう推薦で入れるのだからとこちらに残ったのは、貴明を慮っての事だ。何故なら貴明が疑問に思うかもしれないから。突然転校して、突然また元の高校に転校するなんていうのは。
 鈍感もここまで来ると罪だ。消える方が痕跡を消すのに気を使ってやるなんて。
 しかし雄二は態度に出さず、
「んじゃ、祭楽しんでいけよ」
「一緒に回らないのか?」
「バァカ、オレは祭に来てる浴衣姿の女の子をナンパするのに忙しいんだよ。新たな出逢い、一夏で終わらない恋! なっ、燃えるだろ?」
「パトロールが治安乱したら世も末ね」
 郁乃の手厳しい指摘で、雄二はまたブラブラと境内を歩き出した。

 その後、手を柄杓で清めた後貴明達はまずは昼食と、くじ引きハンバーグにチャレンジした。百円払って、割り箸を引く。書かれていた文字は貴明は一、愛佳は二、郁乃は三と全部揃った。
 刷毛で存分にソースを塗り、郁乃は一先ず愛佳に自分の分を持って貰い、表裏どちらが用意してくれたのか知らないが特設設置されたベンチに腰を下ろして再び受け取る。この体勢で両手を使う物は食べ歩き出来ない。
「あげる」
 郁乃がまだ一口も手を付けていない内から、三つある内の一つを貴明の皿に乗せた。
「いいの?」
「夕飯も合わせて全部制覇するつもりだから、一つのものばかり食べていられないでしょ」
「腹壊すなよ」
「壊さない。心配ならもう一個食べてみる?」
「俺が他の食えなくなるだろ」
 微笑ましい二人の姿を見ている愛佳の紙皿の上に、ハンバーグは無かった。相変わらずの瞬間芸である。
 追加で焼きソバを買いに行くと、店番は眼鏡を掛けた寡黙そうな、知っている少女だった。
「…こんにちは、いくのん」
「…こんにちは」
 予想外の店主に、三人は眼を瞬かせる。
「えっと、ミチルちゃんのご両親がお店出してるの?」
 違います、愛佳さん。この人の父親は裏の元締めです。貴明は心の中で解答した。
 が、愛佳の反応は無理からぬ反応である。彼女の父親の職業を知っている者は同じ学校でも、よっちと教員しかいない。
「いえ、うちの社員で、ここに店を出す予定の人がいたんですが、直前に風邪を引いてしまって。私は代理です」
「え? 社員の人で、ミチルちゃんが代理?」
 祭の場所取りについては詳しくないが、愛佳は首を傾げた。
「……それより、買うんですか?」
「あ、ああ、三人分、頼むよ」
「はい」
 注文を受けてから開始されるヘラ裁き。野菜は水分が露出して萎びない様手早く、麺もふやけないよう迅速に、ソースは風味が飛ばない様ソバをヘラに絡めてから極力鉄板との接地時間を少なく。紙皿に盛り、紅しょうがを添えて出来上がり。
 黄金色の麺と、見目にもシャキシャキ感が残っている野菜。思わず美味しそうという感想が口の中で転がった。
「三つで、六百円になります」
 一人二百円ずつ払って受け取った。
「今日はずっと店番?」
 郁乃がミチルに訊ねる。ミチルは首を横に振った。
「…二時位に母と交代する。午後からは、よっち達と回る予定」
「そう。じゃあそれまで店番頑張ってね」
「ん。いくのんも楽しんでいってくれ」
 ベンチに向かっていく三人を見送り切る間も無く、ミチルは新たな客の注文の焼きソバを作り出した。ミチルの作った焼きソバは見た目通り美味しかった。
 三人はデザート代わりにわらび餅を食べ、昼食終了となった。後は遊具を楽しみつつ食べ歩き可能なおやつを買うのが祭の姿勢だ。とは言え食事した手そのままで遊具を汚すといけないので清めておくのも忘れない。
 ヨーヨー釣りをやった郁乃は初めてにしては上手く、一つ釣り上げた。射的は貴明が挑戦し、大物は無理なので、取れたのは何の役にも立たない玩具だったが。愛佳は輪投げに挑戦して、見事に一つも取れなかった。
 定番の金魚すくいはやらなかった。ヨーヨー釣りと楽しみ方は似ているし、金魚を育てる気もない。誰か他の子どもに救ってもらうのを期待していただきたい。
 遊具よりも食べ歩きに重点を置き、おやつの類は食べ終わっていた。この小さな身体でよく入る。
 その間にこのみ達とも会ったが、合流してグループにはならなかった。
 時刻は午後三時過ぎ。三人は小休止する事にした。
 神社の裏手となると店は出ていない。例年も空いている空間。ここが今年は頑張り、屋台が並んでいる鳥居側と同じ特設ベンチが多数並び、おまけに日除けの屋根まで付いて休憩所となっていた。
「ふぅ…」
 郁乃が疲労から微かに乱れた呼吸を整えようと大きく息を吐いた。
「疲れた? 郁乃」
「少しね。食べ歩き、ばっかりしてたから」
 食事を摂れば体温も上がり、血の巡りのリズムも変わる。純粋な疲労と、体の気だるさが渦を巻いていた。挙句、二時を回った頃から熱さにも参り始めていた。
「ちょっと、休むの長くなるかも」
「何なら横になったらどうだ。丁度ベッドみたいなのもあるし」
 貴明が指した先にあるのは、ベンチと言うよりベッドだった。これを進言してくれたのは、環や雄二、或いはミチルだろう。
「そうね、肩貸して」
 郁乃はベッド型のベンチに移動して身を横たえる。
 寝てみるとここにはまだ余裕があった。人二人座れるぐらいには。
「愛佳、こっち座れるぞ」
 貴明は自然と腰を下ろし、隣をトントンと叩いて愛佳に示す。
「お邪魔します」
 愛佳は浴衣に皺が出来ない様に気を付けて座った。
 郁乃は数秒ベンチに頭を付けたまま横になっていたが、頭を浮かせ身体を上方にずり上げさせた。当然、郁乃の頭が乗るのは貴明の膝の上。
「ホントはお姉ちゃんのがいいんだけど、疲れてるだろうからあんたの膝で我慢してあげる」
「素直に膝枕してくださいって言ったらいいよ」
「膝枕してください」
 相手にしていない様に郁乃は鸚鵡返しに言って、自然に瞼が下がって来た。
「眠いなら寝たら? 花火が始まるまでには起こしてやるから」
「うん…そうする…おやすみ、たかあき」
 もう半分意識も外だったのか寝る前や起きた直後の、虚ろで蕩けた声だった。
 郁乃は寝相が悪く豪快な居眠りなので、ベンチから落ちずにいられるか心配だったが、疲労からか寝相による動きも小さなものだった。
 郁乃が本格的に寝入るのを確認して、ふと愛佳が静かなのに気付いて貴明は顔を横向かせる。
 こてんと愛佳の頭が貴明の肩に乗った。
「愛佳?」
「すー…すー…」
 聞こえるのは規則正しい寝息だけ。祭の賑わいを近くて遠くに、姉妹は二人して眠ってしまった。
「無理ないか、かなり動いたもんな」
 初めてお祭に来た子ども並には。体が出来ている今、動けば子ども以上に疲れるだろう。
「暫くこのまま、か」
 トイレでも行きたくなったら愛佳を起こそうと決め、貴明は郁乃の髪を一撫でした。
 しかし、両サイドで眠られ一人ボーっとしていると心地よい火照りと微妙な眠気が行き場を失って……危うく眠りそうになって貴明は頭を振った。お約束はこりごりだ。

 五時頃に郁乃を起こして(この際に若干手こずった)夜の境内で夕飯の食べ歩き。六時半頃に鳥居を出、花火のよく見える河川敷に移動を始めた。
 汚れるのも気にせず土手にそのまま腰を下ろす。開始まで後一分足らず。
 郁乃を中心に右手が貴明、左手が愛佳の席順。
「楽しかったな…お祭」
 含みが一切無い、郁乃の口を衝いて出た純真な感想。
 貴明の手が郁乃の肩に回された。今日は郁乃の方がくっ付いていたばかりで、貴明から身を寄せて来るのは初めてだ。
 花火玉が軽い炸裂音を響かせて、空に大輪の花を咲かせる。
 ヒュルルルル…… ドン! パンッ ヒュルルルル…… ドン! パンッ
 一定のリズムで繰り返され、藍色の空を鮮やかに彩る花火。空をキャンバスにした儚く豪胆な絵画。
 今までは部屋から見ているしかなかった景色は、近付いた事によって心を震わせる芸術になった。
 そしてそれ以上に、郁乃は今ここにある幸福に瞳を眇めた。








 …スランプ。日常会話が書けない。応募用の代物を推敲し、最後の部分を仕上げに入っているのですが、それに真っ当な日常描写が無かったのも一つの原因かも知れません。
 リハビリとは違いますが少しずつ回復させていきます。






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