「タカくん、顔色悪いよ、だいじょうぶ?」
 六月某日。梅雨明けでカラッとした天気と裏腹に、河野貴明は朝から頭の中が曇り空だった。ズキンズキンと雷まで鳴っている。
「…ああ、ちょっと…ヤバイかもしれない…」
 朝に弱いこのみが珍しく早くやって来た本日、貴明は未だパジャマ姿でフラフラと出迎えていた。その足取りは階段から転げ落ちなかったのが不思議なほど不安定だ。
「熱は? 測った?」
「今起きたとこだから…まだ…」
「じゃあ、わたしは体温計取ってくるから。タカくんはリビングのソファで休んでて」
「ん…」
 慌しく階段を上って行くこのみの足音を遠くに、貴明は揺れる視界の中ソファに倒れこんだ。その際、刺激された胃から吐き気が込み上げたが、直前で飲み込んだ。舌の感覚が鈍い為吐瀉の酸味を味わわなくて済んだのは不幸中の幸いか。
「タカくんっ? わぁっタカくん!?」
 体温計を手にしたこのみが倒れている貴明を見て悲鳴を上げて駆け寄った。
「だいじょうぶ…だから…大声出すな…」
「あ、ごめんなさい…熱、測れる?」
 貴明は頷き、このみから体温計を受け取り脇に挟んだ。
 何もせず待つこと暫し、体温計が鳴った。体温計を取り出す貴明の隣でこのみもデジタル数値を見る。
「…39.2℃」
 ここに、貴明の今日の授業全ての欠席が確定した。


 貴明はこのみに支えられて部屋に戻った。
 朝食は無理そうなので、漢方薬と解熱剤だけを飲んで、今はベッドに横になっている。
 手の届く範囲内にペットボトルのお茶が置かれている以外は、部屋に変わりは無い。
「タカくん、ゆっくり休んでてね。本当に付いてなくてだいじょうぶ?」
「ああ…そんなので、学校サボらせる訳にも…いかないし…」
「うん…じゃあ、行って来るね」
 貴明はこのみの出立に、布団から手だけ出して送り出した。
 このみが階段を降りる音が聞こえなくなると、部屋は震と静まり返った。僅かに耳鳴りがするので漢字の震である。
 静まり返った部屋で現実に聞こえるのは自らの荒い呼吸音と心音。そして時計の針の音だった。こんな時何故デジタル時計にしなかったのかが悔やまれる。どんなに体調が悪い時で、事象が些細なものであろうとも、一度気になると針の音はやたら耳に付いた。全身が熱を持って、関節が軋んで頭が痛くて、さっさと寝てしまいたいのに、その音だけが気になって眠れない。新手の拷問の様だった。
「?」
 時計の音に交じって、現実の音としてトントントンと軽い足音が聞こえて来た。誰だろうか? 頭の働かない今の貴明には解答を用意出来なかった。
 コンコンと、扉がノックされる。同時に声も聞こえた。
「タカくん、起きてる? ―――入るわよ」
 訪問者は貴明が返事をする前にドアを開けた。首を無理矢理立ててぶれる世界の中で確認される一つの姿。手には土鍋を持ち、後ろ手にドアを閉めようとしているその女性は。
「…春夏さん」
 恐らくはこのみに言われ、両親とも海外出張の貴明の様子を見に来てくれたのだろう。
「何だ、起きてたの? うん、よかった。寝てたら起こせないものね。風邪は寝て直す。それが我が家の家訓だから」
 春夏は小作りで貴明の一つ年下の子供の母とは思えない肌の悩みとは無縁そうな顔で、日向の匂いをする笑みを浮かべた。
「お粥作ってきたんだけど、食べれる?」
 お盆に載せた土鍋を貴明に突き出す。
「…腹減ってなくて…」
「ダメよ。風邪を感染いてる時でも少しは食べなきゃ。一口食べるまで寝かせないからね」
 言い、春夏は土鍋の蓋を開け蓮華に一口掬った。貴明の反論は聞く耳を持ってくれないらしい。春夏はその容姿からは想像出来ないほどに頑固で豪快なので、断れば鍋の中身全て無理矢理口に詰め込んでくる事は待っている現実だった。
「…じゃあ、一口だけ…」
 貴明はのろのろと手を春夏の持つ蓮華に伸ばす。その手と同調する様に、蓮華の先が貴明の口元に突き付けられる。
「あの…」
「はい、早く食べる」
 熱に浮かされた貴明の頭でも、高校生にもなってあーんですかと全力で拒否っていた。が、隣の家に住んでいる春夏とは春夏は貴明が生まれた時から、貴明は物心付いた時からの知り合いだ。今更恥ずかしがる事でもない。
「あむ…ん…ご馳走様です…」
 貴明は甘んじて一口分のお粥を咀嚼させてもらい、
「お粗末様」
 春夏も公言通り一口で済ませてくれた。
「じゃあ、後はゆっくりおやすみなさい。私も、こっちにいてあげるから」
「そんな悪いで…いえ、すみません…迷惑掛けます」
 貴明は遠慮しかけて、春夏の常套句を思い出し、素直に提案を受け入れる事にした。
「変な遠慮しないの、全く」
 春夏は残ったお粥を口に運んでいた。

 お粥を一口だけ食べ、貴明は眠ってしまったらしい。瞑っていた眼を開け、目覚ましに手を伸ばしかけ、思い直して隣人に訊いた。
「今、何時ですか?」
「十一時四十二分ね。よく眠れた?」
「お蔭様で」
 風邪を感染いた時の最大の看護は傍にいる事であるとは誰が言った言葉か。あれだけ眠れなかった意識が二時間も睡眠を取っていた。
「大分呂律もはっきりしてきたみたいね。熱、測ってみる?」
「勿論…」
 体温計を受け取り、脇に挟む。測定までの手持ち無沙汰の待ち時間。
「暇じゃなかったですか? テレビも点けられないし」
「そうでもないわよ。男の子が読む雑誌や漫画で充分楽しめたから」
「そうですか」
 人に見られて不味いものは持っていない。普段の行いがこういう時に役に立つ。
 告げられる電子音に、貴明は体温計を抜いた。
「38.5℃、か。明日まで引き摺るかしら」
「…最初の熱が39℃でしたから」
 数字を聞いたら急にまた辛くなってきた。
「そう。でも、ただの風邪ならちゃんと静養すれば三日もあれば完治する。私が保証するわ」
「…春夏さんに保証されても」
 呟きが貴明の口を衝いて出た。
 参考にするには春夏は異常に健康すぎる。体質的に例を挙げれば食事分量は貴明の二倍か三倍食べてこの細身。この体の何処にあれだけの料理が入るのか、或いはあれだけ食べて何故体型が崩れないのか。貴明は体型は崩れていないものの、それは食事量が普通だからであって、彼女らのように馬鹿食いしている訳では無い。
「生意気言うのはこの口か~~~」
 呟きが聞こえたらしい春夏に、貴明は頬の両端を思いっきり引っ張り上げられた。

 貴明がトイレに行くついでがあったので、食事は台所で摂る事になった。
 昼食は朝のお粥より食に重点を置いた雑炊。
 まだ調子の悪い胃腸でありながらも、貴明は一人分を平らげ、解熱剤は飲まずに漢方薬だけ飲んで部屋に戻り、ベッドに横になった。
 体が弱っている時は食事をすると眠くなる。貴明は満腹感と、それに伴う圧迫感、全身を覆う倦怠感に身を委ねた。

 貴明が次に起きたのは三時過ぎ。春夏がいない代わりに、娘のこのみが、幼馴染の雄二と環を連れてやって来ていた。
 測った熱は38.2℃。明日学校に行けるかどうかは微妙そうだった。
「タカ坊、よかったら泊まって看病してあげましょうか?」
 提案したのは姉貴分の環だった。
「あ、このみもこのみも~」
 続いてこのみがぴょんぴょんと手を上げる。
 賛同したこのみもそうだが、環も本気くさかった。
 貴明は親友に手を伸ばす。
「雄二ぃ~」
「…頑張れ」
 その手はあっさりと振り払われ、ここに民主主義の多数決を持って、環とこのみの貴明看病でお泊りが決定された。
 夕飯はうどんだった。環やこのみが作ったものではなく、春夏が作った。
「春夏さんの手料理、久し振りですがやっぱり美味しいですね」
 とは、環の弁。長い事全寮制の九条院にいた彼女は、こっちに帰って来てからご馳走になったのは今日が始めてだったらしい。
「そう。お代わりがあったらいってね。麺もスープも沢山あるから」
 うどん一つとっても美味しい春夏。流石必殺カレーで旦那を射止めただけの事はある。

 貴明は熱があるので風呂に入るのは断念し、蒸しタオルで身体を拭くに留まった。無論、女性人全員追い出して。鈍い反応の身体で行うには疲れる作業であるが、こればっかりは春夏にも頼める事ではない。

 そしてそれぞれの両親から許可を得た環とこのみの泊り掛けの看病の結果、翌日の貴明は嘘の様に快調だった。熱も36.7度と平熱だ。
「くちゅんっ」
「けほっ、こほっ」
 お約束通り、二人に風邪を感染して、であるが。






HOME 戻る