「ターカくーん! 朝だよー! 早く起きないと、もう七時半だよー!」
カーテンを開けた窓越しの晴天の日差しの中、前日父親の出張で例の如く貴明の家に宿泊したこのみは貴明を揺する。
例によって昨日も一緒に寝て、多分貴明以上に疲れている。その上、このみは朝が苦手なのに、彼女は頑張って目覚ましよりも早く起きた。それというのも、今日が特別な日だからである。
何と言っても、今日は貴明がこのみを遊園地に連れて行ってくれる日なのだから。兼ねてからの約束。恋人になってから、タカくんが初めてデートの単語を使って誘ってくれた。
だからこのみは貴明の腕の中で眠る至福の時を蹴ってまで、早起きをしたのだ。
なのに、肝心の貴明はまだ惰眠を貪っている。
これはこのみにとって由々しき事態だった。
「タカくん、起きないと悪戯しちゃうよ?」
何と無く脅迫文句。貴明の鼻から出る一定の呼吸が一瞬止まった。
「タカくん、起きてる? 起きてるよね? 今息止めたの分かったよ? これ以上の抵抗は、このみとしても徹底抗戦する構えでありますよ」
とはいっても暴力に訴える訳ではない。先に言った様に悪戯するだけだ。
このみはゆっくりと貴明の顔に顔を近付ける。そっと唇を重ねて、序に鼻を摘んだ。
当然貴明は呼吸が困難になる。貴明は鼻からの呼吸は早々に諦め、このみの唇を抉じ開けそこから酸素を吸いだした。
「んんん~~~っ」
予想外の反撃に、今度はこのみの方が慌てた。決して嫌という意味ででは無い。反撃の方法に驚いた。このみが思わず貴明の鼻を摘む手を離すと、唇の方は貴明主導で解放された。
「おはよ、このみ」
「おはよ、タカくん。もう、ビックリしたよ」
ええ、リアクションこの程度!? と驚くなかれ。仕掛けたのはこのみなのだ。反撃を受けただけで、不平不満を増すのは筋違い。勿論、狸寝入りに対する不平はある筈なのだが、このみは貴明が起きたからどうでもよくなった。
「タカくんが着替えてる間に朝ご飯作ってるね」
このみの目的はもうこれに移っているのだ。
今こそからかわれながらお母さんの手伝いをした成果を見せる時なのだ。
「大丈夫なのか」
早々に貴明が腰を折る。が、それはこのみの心の中の種火を大きくするだけだった。
「大丈夫だよ。飛びっきり美味しいお味噌汁と玉子焼きを並べるから。このみが必殺カレーだけじゃないって事をタカくんに見せてあげるよ!」
「…そうだな、期待しとく」
笑顔を浮かべて鼻歌を歌いながら、このみは部屋を出て行った。
貴明はまずパジャマから着替え、洗面所に降りて歯磨きに洗顔。鏡を見ながら髪の毛を整え、台所が気になりながら隣を通り新聞を取り込み、改めて台所に入る。
そこではこのみが材料を相手に格闘していた。
「このみ、何か手伝う事あるか?」
「ううんー! もうすぐ出来るから、座って待っててー!」
鍋の方の前で声を張るこのみ。味噌汁のいい香りが漂っている。
「分かったー!」
このみに釣られて、貴明も声を張った。
並んだ料理は量が多いことを除けばご飯、味噌汁、玉子焼きだった。和風朝食である場合の一例の一つと言っていいほどポピュラーだ。
「いただきます」
「いただきます」
二人して手を合わせ軽く礼をする。
このみは直ぐに食べだすのかと思ったが、じっと貴明の様子を窺っている。貴明は鈍い鈍いと言われる頭で感想が聞きたいのだろうと推測した。
「玉子焼き、何か入れてる?」
「入れてないよ。お醤油掛けて食べて」
「それでは…」
醤油を掛けて一口。玉子焼きには若干焦げ目が付いていたが、焦げ付くまで行かなければ味が変わらない料理だ。寧ろきちんと火が通っている目安になる。
「ん。美味い」
「やた~。タカくんに美味しいって言わせたよ」
このみが両手を挙げて喜ぶ。貴明は苦笑と照れが混ざった表情で味噌汁を一口啜った。
「……」
「あ、あれ? どうしたの?」
黙ってしまった貴明にこのみは一転不安げだ。貴明は椀を口から話して言った。
「いや、ちょっと塩辛いかなと思ったけど。これはこれでいいよ。うん」
言った後今度は具を摘む。味が染み付いていて、これはこれで美味しいのは本当だ。汁を飲み捲る気にはならないが。
「う゛…ホントだ。ちょっと濃すぎたかも…。でも、味見の時には美味しいと思ったのに」
「一口だけだったからじゃないか? よく言うだろ。一口目から美味しいって感じるスープとかは、実は濃すぎるって」
貴明はうろ覚えの知識を口にする。だがこのみはその言葉に感銘を受けたようだ。息を一つ大きく呑んだ。
「そうなんだぁ。じゃあ、次からはちょっと薄いぐらいにしたらいんだね」
「さあ、それは分からないけど。何も次成功しなくてもいいだろ。何回も作る内に上手くなるさ」
「うん!」
美味しいと言われた以上に喜色のこのみ。果て、何か喜ばす様な事でも言っただろうか。貴明はやっぱり鈍かった。自分の台詞が、『毎朝俺に味噌汁を作ってくれ』と、異語相似である事に気付いていない。
二人で一緒に洗い物を済ませ、時刻は八時二十分。遊園地の開園時間は九時から。バスも今から行けば丁度の時間だ。
バスの中はそこそこ混んでいた。だが座れないほどではない。貴明とこのみは隣り合って座り、バスに揺られていた。
「最初は何に乗ろうかなぁ~。ジェットコースターもいいけど、スカイシップやバイキングの方がいいかな、タカくん」
「フリーパス買うんだから、乗りたくなった時に何回でも乗ればいいだろ」
フリーパスは貴明の奢りで。
因みにフリーパスの資金は何処から聞きつけたのか両親による交際祝いだった。小遣いの範囲から外れた金でデートをするのも情けないので、貴明は真剣にバイトを始める事を考えていたが、今暫くはお互い依存が収まりそうにない。
「分かってない、分かってないでありますよ」
このみは小さな手で拳を握り力説する。
「乗り放題だって、やっぱり乗り順は大事だよ。例えばいきなり一番怖いジェットコースターに乗った後にそれより怖くないパイレーツに乗ったって感動半減だよ? それに、折角のデートなんだから行き当たりばったりより、二人で楽しめる計画を立てなくちゃ」
成程、確かにその通りかもしれない。
少々周りを忘れたこのみの演説に乗客の視線が集まっていたりするが、貴明は些細な事にしておいた。兄妹に間違われるよりバカップルに思われた方がずっといい。
「じゃ、まずはお化け屋敷からで―」
貴明はボカッとこのみに叩かれた。
このみは可愛らしい顔のホッペをこのみは膨らませて不機嫌顔だ。
「タカくん、このみがお化け苦手なの知ってる癖に、直ぐ苛めようとする」
「冗談だって。お化け屋敷は却下な」
「あ、でも…タカくんがどうしても入りたいなら…」
「いいって。無理しなくて。俺だって別に入りたい訳でも無いんだから」
このみは未だにお化けに驚くが、貴明の場合お化けが偽者だと分かっている以上、脅かしてくるタイミングで驚かされる事がある。それはもうお化け屋敷じゃない。
「…うん。じゃあ一番目はフリーフォールにする?」
「いきなりキツイなおい」
感動何処行った。そんなツッコミが入れられた。
「とうちゃ~く!」
アミューズメントパーク―ネズミーランドに入園し、このみのテンションは今日一番に昂揚する。
「隊長隊長! 乗り放題でありあますよー!」
このみが言った意味はフリーパスだからと言うわけでは無い。朝一番過ぎてまだ人は少なめだ。今なら通常混むアトラクションでも殆ど待たずに乗れるだろう。
「そうだな。んじゃ、まずは予定通りスカイシップから」
バスの中で話し合いを重ね、一発目にフリーフォールは却下となっていた。
やはり直ぐに乗れ、後から来る人間に若干待たされたぐらいだった。これは一つに二人乗りでき、シートベルトを締めると結構な密着状態だった。
「えへ~」
このみが甘い笑顔で貴明の腕を抱いて来る。貴明は何も言わなかったが、流石に恥ずかしかった。
ある程度数が揃った所で運行が始まる。
機体が上空へ吊り上げられ、まずは円筒を中心に回り始めた。そしてスピードが上がり、激しく上下にゆれ、機体が九十度回転する。
「楽しいね~!」
「おう!」
笑い声交じりの声が風に掻き消されないよう大にして交わされる。ジャンルは絶叫では有ったが、怖いと言うより爽快だった。
「ん? ちゃる、今このみの声しなかった」
風に掻き消されないよう張り上げた声は外まで聞こえていた。
振られたちゃるは事も無げに答える。
「…私も聞こえた。多分、デートに来てる」
「ええ!? ちょっと、聞いてないっしょ! いや、このみが先輩とデートに来るのは知ってたけど! 今日だったの!?」
デートを知っているのは、遊ぶ誘いを断られたのがそれだったからだ。尤も、商店街で当てたフリーパスはペアだったので、誰かが自腹を切らなければ行けなかった事を考えると、都合は良かったのだが。
「…大きな声出すなタヌキ。私だって知ってたら何も今日にしなかった」
鉢合わせするのも気が引けるが、気付いた以上嫌でも意識する。だが、よっちは違うようだ。
「こうなったらあの二人のデートっぷりを見させてもらうっきゃない!」
「よっち、それデバガメ」
ちゃるの冷静なツッコミは、よっちには聞こえていなかった。
次はフリーフォール。ザ・自由落下。これは素直に怖かった。このみは楽しそうだったが。
「次は…あ」
「どうし…」
このみの視線が一つのアトラクションで止まる。視線を追った貴明も乗り物を見て表情を固めた。――――いい歳した男はメリーゴーランド並みに乗りたくない代物、コーヒーカップだった。
「タカくん―ダメかな?」
上目遣いで強請るこのみ。そんな顔をされて、断れる貴明ではない。
貴明は嘆息一つ。
「了解。今日はとことんこのみに付き合う」
「――うん! じゃあ早く行こう!」
このみに腕を引かれ、二人して駆け足でコーヒーカップへ向かった。
「くぁ~! 見ましたか奥さん! あの二人コーヒーカップに乗ってますよ! 回しながら楽しそうに笑ってますよ! やってらんねえ~!」
アトラクションそっちのけで人影に忍び、二人を追跡していたよっちが感情に来た声を上げる。
「…ラブラブファイヤー」
「そうそう、油注がなくても二人で勝手に派手に燃え上がってるもん。焚き付けたりはしてたけど、ここまで来るとからかう楽しみがないね、もう」
よっちは憂いのある苦笑いで人影から出て、気付いていないだろうが二人に手を振って真っ当な方法で園内を満喫する事に決めた。
「よっち…寂しいか?」
「ま、ちょっとね」
「…そうだな。私も寂しい。でも、それ以上に嬉しい」
納まる鞘が納まるべきところに納まって。このみがあんなに嬉しそうで。
よっちも大仰に頷く。
「それはあたしも同意見。しょうがないから、今日は独り者同士、遊び尽くそうぜぃ!」
「ん」
目的が最初に戻っただけだが、テンションは大きく上がっていた。
その後は貴明とこのみは混み混みに順調にアトラクションをこなし、ジェットコースターに乗り、食前に物理的に涼しくなろうと急流滑りに乗った。
「ちょっと濡れちゃったね」
肩の辺りを撫でながらこのみ。
「ま、夏だしその内乾くだろ。そろそろ飯にしようか」
貴明も、このみの湿り気を帯びた髪を一撫でしてランド内にあるレストランを指した。
食後も絶叫系恥ずかし形迷路系とアトラクションを制覇して、夕方には締めの観覧車に乗って、閉園にはまだ早いがそろそろ帰る頃合となった。
まだ遊ぶ人、二人と同じく帰る人の波の中を歩いている最中、このみの脚がピタリと止まった。
「このみ?」
彼女に歩調を合わせていた貴明は一歩前に出た状態で振り返る。このみは顔を俯けており、何やら深い葛藤をしている様だった。やがて結論が出たのか顔を上げ、声を出す前行動として息を吸い込み、
「タカくん、最後にお化け屋敷、行ってもいいかな?」
ピシリと、貴明は固まった。さて、このみは一体何を言っているのか? お化け嫌いなのに自分から、しかも貴明は入らなくてもいいと言っていたにも拘らず? しかしこのみ自ら言い出す位だから何か考えはあるかもしれない訳で。
「俺はいいけど、このみの方はいいのか?」
結局口にしたのは二つの考えの折衷。このみはこくりと頷いた。
「どうぞお楽しみ下さい」
受付のお姉さんに言葉は事務的に、しかし顔は恐らく本心から微笑まれて、貴明とこのみは送り出された。いや、だって。このみが受付段階から貴明の腕に抱きついてるんだから。このみは受付のお姉さんの笑みに気付いておらず、貴明は一人顔を赤くしてアトラクションに入った。
暗い館内。電灯は電灯と言うより蝋燭の明かりに近い。草葉も井戸も墓も、幼い頃に入ったお化け屋敷よりずっと精巧だ。
「最近は凄いな…」
「えっ? なにっ?」
感心して呟く貴明と違いこのみは余裕少なだ。腕に抱きつく力はしがみ付くに変わって、眼は閉じるのも怖いのか貴明しか見ていない。物音に一々身を強張らせ、お化けが出れば大声で叫ぶ。箸が転がってもおかしい年頃と言う例えが昔あったが、今のこのみはその恐怖バージョンに相違無い。
「なあ」
それでも何とか出口近くまでパニック無しで来たこのみ。
「何でお化け屋敷に入ろうなんて言ったんだ?」
貴明は気になって、このみに訊ねてみた。
このみは貴明に身を摺り寄せたまま、恐怖から顔を背ける事も出来ず、見下ろされる貴明の顔に耐えかね渋々と答える。
「タカくんが…冗談でも入ろうって言ったから…」
それは呆れるほど可愛らしい理由。恥ずかしくてもコーヒーカップに乗った貴明と同様の思考。
「ったく。そんな事気にしなくてもいいのに」
貴明はくしゃくしゃとこのみの頭をかいぐりした。
言葉に表せられない感情を伝える様に。
出口にもお姉さんがいた。ここで入出をチェックしているのだろう。その割には何故か彼女はこちらを向かない。
そして彼女は二人の足音が充分近付いたのを感じると、ゆっくりと振り返った。
顔のない顔で――
「ご入場、ありがとうござい――」
言い終わる前に地面にそこそこの重量が叩きつけられる音。
スタッフの彼女にとっても初めてのリアクションだった。
「このみ! センパイ! こんばんはッス!」
「…こんばんは」
バス停でバス待ちをしていたよっちとちゃるに、貴明とこのみは邂逅した。
「ああ、こんばんは」
「こんばんは、よっち、ちゃる」
挨拶を返す貴明とこのみだが、よっちいとちゃるの視線は貴明の背中―このみに釘付けだ。
「このみ、どしたの? 負ぶってもらっちゃって」
「…怪我でもした?」
このみの身を案ずる二人に、当の本人は顔を赤くして恥ずかしそうに答える。
「腰…抜けちゃって」
お化け屋敷の最後の最後の仕掛けで。のっぺらぼうのマスクを外して謝るお姉さんが物凄く気の毒だった。
腰が抜けた発言に聞き手の二人に少々の憶測が呼ばれたが、連鎖的によっち達がデバガメしていた事もバレ、バスの運転手が困り顔で四人に乗るのか乗らないのかを聞くまで、それは続けられた。
バスでは四人で固まって座った。最初、このみも会話に参加していたが、いつのまにか眠って、貴明の膝の上に倒れて来た。
「ご馳走様ッス」
よっちは記念にと携帯電話で写真を撮って、にんまりと笑った。
そんな事は露と知らないこのみは、好きな人の膝の上で幸せに顔を綻ばせていた。