空は茜。雲も無い黄昏に入る前のひたすら鮮やかな夕焼け。
「ふわ…ぁ」
授業中欲望に抵抗して船を漕いでいた貴明は、授業終了のチャイムで噛み殺した欠伸と共に大きく背筋を伸ばした。暁に間に合ったのは貴明の自制心からか、それともまだ完璧な春では無いからか。間違いなく両方だろう。
貴明は特筆する事もないHRを右から左に垂れ流して、クラスの正式に襲名された委員長であり、貴明が手伝っている誰に言われるでもない書庫の整理を行っている小牧愛佳の姿を眼で追う。彼女は用事があるのかHRが終わると小動物の忙しさで教室を出て行った。
「貴明ぃ。舟漕いでるの、もんの凄い間抜けだったぞ」
既に帰り支度を終了したらしい幼馴染の雄二がにまり顔で貴明の前に立っていた。
「ほっとけ。堂々と寝る奴に言われたくないよ」
「船漕ぎが先生には一番やりにくいんだよ。だから、オレは先生に優しい訳だ」
「それで起こされたら文句言うじゃないか」
「至福の睡眠を邪魔されるのは誰にだって不満なんだよ、仕方ねえだろ。それに、先生には文句言ってないっての。周囲に零すのは愚痴だ。悪い事してるって分かってるから、先生には素直に謝ってるじゃねえか―――んで、話は全然変わるんだけどよ、ゲーセン行かねえか、新しい対戦出てるだろ」
「ああ、俺もこの間やったけど」
二日前、同人の同人だった(と言っても公認らしいが)対戦ゲームが元になったゲームのサークルが会社になったりゲームもアニメになったりして遂に対戦ゲームもアーケードで出たのだ。貴明は図らずも由真と対戦したりして、二桁を超えて全く互角の勝敗で注ぎ込んだ金は何だったのかと言う結果だった。そんな理由で、今金欠気味。気になる事も一つある。
「やめとく。下手に遊ぶと昼食がコッペパンにランクダウンしかねない」
「そっか、じゃあしょうがねえな。一人で腕を磨いておくぜ。勝ったらヤックな」
「オッケ。金欠回復したら勝負な」
教室の喧騒が背後に聞こえる。二人は会話しながら廊下に出ていた。
「また明日」
「明日な。遅刻すんじゃねえぞ。って、何処行くんだ?」
二人はまだ教室を出たばかり。下校するのなら階段は当然下りなのだが、貴明は上りに脚を掛けていた。そう言えば挨拶も早すぎる。ここまで一緒なら態々離れて帰る意味もないし、商店街の別れ道で言うべき言葉だ。
雄二に疑問点を衝かれ、貴明は説明しようとして、その説明の言葉に迷った。疚しい事はしていない。しかし正直にこの友人に言えばからかわれるかそれを含んだ応援か。どちらにしろ恥ずかしい上に処理が手間だ。
結局貴明の口から出たのは無難な嘘。
「よ、用事があって」
雄二はそれにすら詰まる嘘の下手な親友が腹立たしいやら誇らしいやら。追及は敢えてやめておいた。何と無く察しも付いた。当たっているなら立場上、応援も邪魔も出来ない。
「そうか、さいなら」
「あ、ああ。さよなら」
思慮を巡らしてくれた雄二に気付かず、貴明は早足で階段を駆け上がった。
少々急ぎ足で辿り着いた書庫の前。ドアに手を掛けてみるも、重すぎる感触で開く事は不可能だった。
「今日も来てないのか…」
これで空振る事三回目。暇な時に手伝うと言っておいて三日連続で書庫に通っている自分に呆れてしまう。愛佳の方も、毎日来ているわけじゃないと言っていたが、主人物(といっても貴明を入れて二人だが)が三日連続で訪れないものだろうか。投げ出すのは考えられない。あの時の愛佳の姿は委員長として頑張っている姿よりもずっと生き生きとしていた。万が一やっとこない事情で中止するを得ないにしても、愛佳は告げる筈だ。遠慮性でかつ男が苦手な愛佳を貴明が無理矢理手伝っている現状でも。
「帰るか」
無駄足を踏んだとは思わない。現状から考えるとその資格は無いし、休み時間なり何なりに訊ねるのが恥ずかしい自分が悪いのだから。貴明もまた、女の子が苦手であった。
一年での学習日程最後の週、貴明は疲れていた。原因ははっきり分かっている。数年振りに会った雄二の姉、貴明にとっても姉貴分の向坂環に買い物を付き合わされたからだ。久し振りの台風は、穏やかな日々に慣れていた貴明の体には辛かった。おまけに、これからその台風の風速を僅かに落としたものが標準になりそうなのだ。尤も貴明にとってはどんなに疲弊させられようともやはりタマ姉はタマ姉であって。帰って来た事は喜ばしく思う。幼馴染の中で一番の妹分のこのみも喜んでいるし。このみは中学も卒業して春休みだから、転校するのが決定で暇な環と昼間べったり遊んでいるかも知れない。あの二人の仲良し振りは日曜日に確認済みである。若干一名、半分近く本気で嘆いている人間も居るようだが。
この日も愛佳が書庫に来る事は無かった。これで四日連続だ。いや、先週の金曜日は貴明が来れなかったので、もしかしたらその日には来ていたのかもしれないが。
「何かチグハグだよな」
帰り道、貴明は商店街に繰り出した。一応、目当てはゲーセンだ。財力は幾分回復している。対人戦でなければワンコインかツーコインで充分だろう。来る雄二との対戦に向けて、腕を確かめておく必要がある。
「あ、タカくん」
幼さを残した―お世辞だ―幼い少女の声が貴明を呼ぶ。こんな呼び方をする知り合いを貴明は二人しか知らない。
「よ、このみ」
振り向いた先にはこのみが貴明に向かって駆け出していた。右手に下げた買い物袋が揺れる揺れる。中の物が痛まないか心配だ。
「タカくんも買い物?」
訊ねるこのみは全力ダッシュしたにも拘らず、息はまるで乱れていない。足も早く、同学年の陸上選手並だ。
「いや、ゲーセンに行こうと思ってる」
「ゲームセンター? ねえねえ、このみも行っていいかな?」
このみの意外な反応。このみはゲーム嫌いって訳ではないが家にゲーム機は無いし、一人でゲームセンターに入っていたりも貴明の知る範囲では無い。貴明と雄二が誘って行く事はあるが、このみから行くというのは初めてかもしれない。
「俺はいいけど、買い物はいいのか?」
「買い物はもう終わったのであります。まだ夕飯までには時間があるから、全然大丈夫なのでありますよ!」
妙な軍人口調であるが、このみが行く気満々なのは貴明にも分かった。
「そんじゃ行くか、柚原一等兵!」
「やた~! りょうかーい、であります、隊長!」
貴明、このみ両名は止めていた足をゲームセンターへと向けた。
その内貴明の眼に彼女の姿が映ったのは、本当に偶然だったのか。
雑踏の中、往来を挟んで反対側四十メートル程前方のお菓子屋から出て来た愛佳を見つけた。
「タカくん?」
最初は声を掛けようと思った。流石にこれだけの人前で呼ぶのは恥ずかしいから近寄って、だったが。
「タカくん?」
しかし踏み出そうと思った脚は止まってしまった。朧気にしか見えなかった彼女の表情は、何か負の感情を堪えている様で。打ち消そうとする余り、逆にその辛さが滲み出ている様で。普通の高校生が感じる悲痛さとはまるで質が違う様に思えた。
ほんの一瞬の視認。
行動を逸した間に愛佳は人込みに消えてしまい、確認する術はない。
「ねえ、タカくんってば」
は、何を馬鹿な。委員長だっていつもにこにこしていられる訳じゃない。あれだけ周りに頼りにされれば疲れない方がおかしいんだ。委員長のイメージと違うから、大袈裟に感じてしまっただけで――――
――――本当にそうか?
「タカくんっ! タカくんってば!!」
「うぉっ」
返事をしない貴明に豪を煮やしたこのみは貴明の首っ玉に飛び付いた。
「こ、このみっ? いきなりどうした?」
「むぅ~。いきなりじゃないよっ。このみ、何回もタカくんこと呼んでたんだからね!」
「え? あ、そうか?」
「そうだよぉ」
このみは拗ねて、貴明の背中から未だに降りてくれない。商店街でこれは恥ずかしい。雄二や好みの母親の春夏からすれば仲の良さはお墨付き、今更どうって事ないと言われそうだが往来で何の必然も無い密着は別だ。何より首に回された腕が、
「し、絞めるな……苦しいぃ……」
「反省した?」
「した。ごめんなさいっ。だから、離せっ……けほっ、けほっ」
漸くとこのみが降りてくれて、貴明は背を丸めて咳き込んだ。
「こ、殺す気か」
貴明は未だに息を整えながらこのみを睨み付ける。何とも格好悪い。
「大丈夫だよ。タカくんのことはちゃんと知ってるから」
「こんな時に使う台詞じゃないっ」
貴明ははぁはぁ乱れていた呼吸も回復し、頭三つ近く違うこのみを見下ろす。使い所を間違えるとシュールな台詞へのツッコミも忘れない。ついでに断っておくと貴明の背が高いのではなく、このみが低すぎるのだ。
不平不満は先ので終わり、背筋を伸ばした貴明の視界に愛佳の面影は何処にも無かった。
胸が、妙に騒ぐ。
「タカくん?」
またも何処か遠くを見出した幼馴染にこのみは不審気に声を掛ける。まさか宇宙から降ってきた毒っぽい電波でも受信しているのだろうか、とは考えなかっただろうか。
「悪い、このみ。ちょっと用事を思い出した。ゲーセンはまた今度な」
「え? あ、タカくんっ」
このみの返事を聞くより先に貴明は駆け出していた。
目的の姿は幸い、直ぐに見つける事が出来た。右手に袋を二つ提げて歩いている。
しかし見つけてどうするのだろうか。声を掛けて『さっきなんか辛そうだったけどどうしたの?』とでも訊くのだろうか。馬鹿言っちゃいけない。そんな質問只でさえ教えてくれるか怪しいのに、相手はあの遠慮女王の委員長だぞ。人に迷惑を掛けず全部自分で背負い込む人間だぞ。ならやる事は一つだろう。貴明は数十メートル愛佳との距離を開けて遮蔽物に身を隠した。
尾行。
誰だって子供の頃に一度ぐらいやった事はあるだろう。しかし今は高校生。被害届け無しでも警察が気に留めれば職務質問ものの行動だ。
頭の冷静な部分が警鐘を鳴らす。お前が行っている事は犯罪に順ずる行為だと。大体が、この先に愛佳の悲痛の原因があるとは限らない。確率的に言えば、ずーーーと低い。
だが、貴明は止まらなかった。大それた事をしているにも拘らず恐怖心から息を潜める。既に冷静ではない。あるのは好奇心と、後には引けない強迫観念。
じゃっじゃっじゃ。
天然の色彩に彩られた世界に自分の足音だけが耳に響く。いや、聞こえない筈の愛佳の足音が聞こえて二つ分か。他にも人はいる筈なのに、愛佳より近くでも物音はするのに、二つ以外の足音が聞こえない。緊張感の果てに、体の機能が最小限の範囲で最高に生かされている。
警鐘はもう聞こえない。愛佳の後を尾け続ける。
そうして、気付かれる事無く辿り着いた終着点は、大きな白い建物。
市民病院、だった。
市民病院? 一体何の用で?
愛佳が訪れる理由がまるで分からない。
貴明の熱が集まっていた部分が途端に冷えていく。脊髄の代わりに南極から取り寄せた氷柱を入れられた様だ。見てはいけないものを見てしまった。今直ぐにでも踵を返すべきだろう。だが、もし愛佳が病気だったら? 無意味な過程。貴明にはどうしようもない。何も見なかった事にして引き返すのが幸せなのだ。いつも通りの日々に戻ればいい。愛佳とも、偶に書庫の整理を手伝う間柄で居続けられる。引き返せ引き返せ引き返せ―――
「ここで引き返すぐらいなら―――」
あれだけ熱に浮かされていた頭も今はもう、はっきりとした判断力が戻っている。
「―――ここまでしないよな」
貴明は自分の意思によって、自動ドアを潜った。
「小牧っ!!」
貴明が自動ドアを潜ったタイミングは絶妙だった。愛佳が下りて来たエレベーターに乗った直後、これより二秒遅ければ、貴明は階段さえ上れなかった。
「河野くんっ!?」
タレ目を見開いて、愛佳が驚愕の声を開ける。
「俺彼女の連れですっ!」
愛佳を指差し受付の看護士に怒鳴る様に報告する。
後ろから聞こえてくる非難の声を無視して、貴明は転がる様にしてエレベーターに乗り込んだ。壁に寄り掛かる貴明に、愛佳がパネルから指を離すのが見えた。分かっていたが、開のパネルを押し続けてくれていたのだ。離れて数秒で、ドアは閉じられた。
「こ、河野くん。どうしてここに…?」
愛佳は軽く息を切らしている貴明に状況への理解が追いついていないまま問い掛ける。
「ごめん、様子が変だったから、尾けた。変態って詰ってくれていい」
貴明は申し開き一切無し。全て素直に吐き出す。
愛佳は呆然として貴明を見つめた。
「訊ける筋合いじゃないし、答えたくないだろうけど、どうして病院に? どっか悪いの?」
今度は貴明が訊ねる。
愛佳は短く息を呑み、視線を下げながら、貴明に告げた。
「…妹がいるの」
「妹?」
貴明は愛佳が病気な訳じゃないんだと喜びかけて、次の言葉でそれが余りにも安易な喜悦だと思い知った。
「ずっと、生まれた時から体が弱くて、家と病院を往復して過ごしてるんです」