「誰? あんた?」
 病室に入った貴明を迎えた人間の第一声は、棘を含有して煮詰めた様な少女の声だった。容姿としては小柄だが病人のイメージほど痩せているわけでもなく、姉と同じタレ目の癖に妙に鋭い視線を放っている。
「あ、こちら同じクラスの―――」
「お姉さんと同じクラスの河野貴明。お前は?」
 初対面でのお前呼ばわりに郁乃の視線の剣が微かに増す。
「小牧郁乃。期待外れで悪かったわね」
 郁乃の言った期待の意味に、貴明は方眉を上げる。オーケー、こいつ薄幸の美少女なんかじゃない。体が弱い事を入れても俺内クソガキ。
「期待云々じゃなくて、年上に対する最低限の口調相手に謙る必要ないだろう」
 ちなみに最低限の単語は"あんた"に掛けてある。だから貴明はそこを"お前"にした。
「あ、あの仲良く、仲良く、ね?」
 愛佳の台詞にどちらも肯定の返事はしなかった。
 沈黙が訪れる。結果的に二人を引き合わせた愛佳は板挟み状態だ。シーツや洗濯物を理由に逃げ出す事は可能だが、険悪なムードの中二人っきりにはさせられない。第一、昨日交換したばかりだ。
「そ、そうだ。郁乃、お菓子買って来たんだけど、食べる? よかったら河野くんも」
「見舞い品だろ? そいつの許可次第」
「あんたなんかにやらない」
「あ、あぅぅ~。郁乃、お見舞い用じゃなければいいんだよね。あたしの分もあるから。河野くん、はいこれ――」
 と、二つの内一つを郁乃に渡し、自分の分らしい袋からラッピングされたスコーンを貴明に渡そうとして硬直した。間に置くクッションは無い。
 手渡し=指が触れる可能性がある。貴明も察し、機転を利かせて落ち着けていた椅子から腰を上げた。
「の、飲み物買って来る。そっちは何かいる?」
 貴明の受付に愛佳は首を振り郁乃はしっかり百パーセントオレンジジュースを頼んだ。
 慌しく出て行く貴明を見送り、郁乃は姉を見据えて訊ねる。
「お姉ちゃん、あれとどういう関係?」
「郁乃っ。河野くんのことあれなんて言っちゃダメ」
「じゃあ何て呼ぶの? 苗字で呼び捨て? 名前で呼び捨て? 敬称でさんなんて絶対付けたくない」
「そんな我侭言わないでぇ~」
 泣きそうな姉の嘆願に、郁乃は呆れて物が言えない。
「分かったわよ。善処する。で、質問に答えて」
「仲のいいクラスメートだよ」
「何でそんなの連れて来たの? 女ならまだしも男。今まで連れて来た事あるの、由真さんだけよね」
 的確なツッコミ。
「他に何か理由があるんでしょ」
 更に断定系。
 確かに理由はある。けれど正直に『心配で尾行してたらここまで来たんだって』等と言えない。言えっこない。かと言って、咄嗟に妹を納得させる嘘を考える事も出来ない。
「言えない理由があるの?」
「な、ないよ。何にもない。由真と同じぐらい仲がよかったから、紹介しようと思って。本当にそれだけだよ」
 愛佳はもう最初の理由で押し通す事に決めた。
 コンコン。
 郁乃は当然追及しようとしたがノックの音に遮られた。
「はい」
 郁乃の声を確認してドアが開かれる。愛佳は貴明かと思ったが、顔を覗かせたのは女性の看護士だった。
「郁乃ちゃん、ちょっと失礼するわね」
「ん」
 詰問を止められジュースを待つのも面倒になったらしく、郁乃はガレットの封を切ってつまみ出した。
 そんな作法を気にも留めず、看護士は暖色系の病室内を見回す。
「どうかしたの?」
 摘む手を止め、不審気に訊ねる郁乃。看護士の次の言葉に、愛佳は背筋が凍った。
「お姉さんがエレベータに乗ってる所に受付に怒鳴り散らして滑り込んだ男の子がいるって聞いて来たんだけど、居ないの?」
「…お姉ちゃん?」
 愛佳を見る郁乃の眼がジト眼になる。
 悪い事は重なるもので、
「遅くなった。自販機の場所分かんなくて」
 状況を把握出来ていない貴明が、お約束通り登場してくれた。

「変態」
 最大限の侮蔑を込めた郁乃の言葉と視線に、流石の貴明も胸が重くなる。言い逃れも出来ない。愛佳に啖呵を切った手前もある。
「い、郁乃。河野くんも悪気があった訳じゃないんだし」
「お姉ちゃんは甘いっ。ストーカーって言うのは悪気なんて持たないし、持っててもぶっ飛んだ三段論法で打ち消しちゃうのよ!」
 尾行していた貴明の状態と似ているだけに胸に刺さる。
「もしお姉ちゃんに変なことしてみなさい。這ってでも寝首を掻いてやるんだから!」
「絶対にしない。約束する」
 しかしそれだけは絶対に言える。以後の行動で、二度と繰り返しはしないと。
 その意志が伝わってくれたのか、或いは言うだけ言ったからか、郁乃の剣幕は治まっていった。
「もういい。今日は疲れた」
 本当に疲弊した吐息。貴明の所為で興奮させたのも、疲労を助長させた一つだろう。
「あ、じゃあもう帰るね。ごめんね、長々と」
 愛佳が腰を浮かすのに倣い、貴明も病室を辞去しようとする。
「じゃあ、俺もこれで」
「あんたは待て」
 貴明を引き留める郁乃に、不思議そうに二人が見返す。
「お姉ちゃん先に帰って。この変態はあたしが見張ってるから」
「い、郁乃っ!」
 愛佳が宥めるを通り越して怒り出しそうなのを、槍玉に挙げられた貴明自ら手を出して制する。
「いいよ、それで安心するんなら。小牧、先に帰ってて」
「物分りが良くて良かったわ。ああ、ナースコールは握らせてもらうから」
「分かってる」
 愛佳は何だか不満そうだったが、貴明と郁乃で同意が得られている以上仕方なく一人でドアに向かった。
「河野くん」
「どうしたの、忘れ物?」
「信じてますから」
 或る意味トドメな愛佳の発言に、郁乃は必死な思いで笑いを噛み殺した。

「…っ……っ」
 郁乃は扉が閉まってもまだ肩を震わせている。
「はっはっは」
 貴明も釣られて笑みが零れる。
「あ、あんたが笑…く…ぅな」
「けど、あれは反則だろ。くくっ」
 不意打ち過ぎてショックよりも笑えてくる。
 一頻り思い思いに発散して忘れさせる事が出来たのは、三分後だった。
「で、笑いも治まって丁度いいし、そろそろ帰っていいか?」
「んん? 姉が出てから何分ぐらい経った?」
「さあ、五分ぐらいじゃないか?」
 貴明は感覚で答える。
「まだ駄目。後五分は拘束させてもらう。勝手に帰ってもナースコール」
「分かったよ」
 貴明は姉思いの妹の言い分を素直に聞く。貴明の中での郁乃の評価は幾らか上向き修正されていた。
「なあ、テレビ点けていいか」
「ふぅ…ん…ぇ、何?」
 口の中だけでさせる欠伸。
「お前、もしかして物凄く眠いんじゃないか?」
「言ったでしょ…疲れたって」
 カーテン越しでも入ってくる茜の日。来た時に比べるとやや陰りが出て来ている。
「なら出て行くから無理しないで寝ろ。ちゃんとホールででも後四分弱時間潰すから」
「そう簡単に…口車に乗らなぃ…ぁふ」
「言える義理じゃないけど信用しろよ」
「……分かったわよ。質問に答えたら…帰ってもいい…ふぁ」
 郁乃も限界が近いのだろう。妥協案を提出してきた。
「あんた…姉のこと…どう思ってるの…んぅ…」
「どうって…」
 予想は出来た質問。答えも決まっていた。お人好しで放っておけない友達。しかし、この答えでいいのだろうか? とも疑問に思う。
 郁乃は中々答えない貴明を急かす。
「好きか嫌いか…好きなら性欲の対象か…それだけでいいから…早く言ってよ…」
「性欲って…」
「何よ…男と女の仲で…それ抜きで語れるの……?」
 もう舟を漕ぎ始めて、いつベッドに倒れてもおかしく無さそうな郁乃。適当に長引かせれば勝手に寝てしまいそうだ。それよりも早く、貴明は眠たそうな郁乃に出来る限りの返答をした。
「好きだし、その、性欲もあると思う。男と女なんだからしょうがないだろ。でも、そういう仲になりたいって訳じゃなくて。つまり、男として魅力的な女の子に対する標準の反応であるというか……」
「くかー」
「……」
 寝た。寝やがった。人が真剣に答えてるのに。
 貴明は鞄を提げて立ち上がる。そのまま出て行こうとして、郁乃が上半身を起こしたまま寝ているのが気になった。
「起きるなよぉ…」
 背中を支え、肩を押してベッドに寝かせる。女の子が苦手で、例えば相手が愛佳なら恥ずかしさで震え過ぎて起こしそうなこの行為も、単なるガキとして見ている郁乃には実にスムーズに進んだ。
 掛け布団も掛けてやってから、貴明は病室を後にした。
 約束の時間まで時間を潰そうと下りた貴明だったが、結果的に意味がなくなってしまった。
「――河野くん」
 先に帰っている筈の愛佳が、ホールの長椅子で貴明を待っていた。
「すみません、郁乃が我侭言って」
 深々と頭を下げる。犬なら尻尾も項垂れているだろう。
「いや、いいよ。元はと言えば俺が悪いんだし。ね、この話はこれでお終い」
「は、はい」
 頷いた愛佳が一つ大切な事を思い出した。
「あ、そうだ。ジュース代」
「いや、いいよ。どうせ今日ゲーセンで散財する気だったし…そ、それより……」
 只でさえ貴明が注目を浴びる登場をしたのに、幕までこれでは。
「あ、あわわわわわぁ…」
 ナースステーション、待合の人間と集中している視線に気付いた愛佳が顔を真っ赤にする。勿論、貴明も。

「じゃ、じゃあ。また明日ね」
「う、うん」
 病院を飛び出して、一緒に帰る事も出来るのに道の途中で大きく距離を開けて別れの挨拶をする。閉じられた空間でなら兎も角、誰かの眼がある場所で騒ぐのはお互いまだ恥ずかしい。
こうして今日が終わった。


 明くる二十三日は久し振りに書庫の整理をした。終始愛佳が何か言いたそうだったけれど、貴明は気付かなかった。
 二十四日は終業式もつつがなく終わり、午後から手持ち無沙汰だった。
 教室で形式だけ持って来た鞄を提げて、ふと思う。
 そういえばあのガキの中で俺はまだ変態扱いのままなのかと。
 何か悲しくなってきた。様子を見るのも兼ねて行ってみるかと貴明は愛佳を探す。
 ちょいちょいと手招きして、人気の少ない階層で話題を口に出す。
「妹さんって今どっちにいるの?」
「病院ですよ。一月に一回帰って来れればいい方ですから。最近は新しい治療法も始めてるから、暫くは帰って来れないんですけどね」
 愛佳は寂しそうに語る。
「そうか。小牧は今日お見舞いには行くの?」
「はい。行きますよ」
 貴明は正直助かった。一人で行ったら何を言われるか分かったものでは無い。尤も、前回は愛佳がいてもそれ程の抑止力 ではなかったような気もするが。
「俺も付いていっていい? 迷惑じゃなければ」
「えっ、ええ。迷惑だ何てそんな。郁乃、喜びますよ!」
「喜ぶぅ?」
 あんまりにも想像が付かない。
「郁乃、河野くんの話をすると元気になりますから」
「それは、怒ったり馬鹿にしたりなんじゃないの」
「あ、あははは。どうだったかなぁ~」
 愛佳の空笑いは誤魔化しにもなっていなかった。


 コンコン
「どうぞ」
 ノックに応える声に、愛佳が扉を引き開ける。
「今日は早いのね」
「終業式だったから」
 姉の答えに郁乃は特に興味無さそうだった。
 続いて覗かせた貴明に気付くと呆れた声を出す。
「ああ、また来たの」
「郁乃、そんな言い方しちゃダメ」
 愛佳が郁乃を咎めるが、貴明はまるで気にせず椅子に座る。
「あたし、洗濯してくるね。河野くん、郁乃の相手しててくださいね」
「ああ」
「ナースコールは握ってるから心配しないで」
「郁乃っ」
 愛佳のお叱りも何処吹く風の郁乃。
 愛佳が謝って出て行った病室で、貴明は改めて白ではなく暖色で囲まれた病室を改めて見回す。見舞いに定番の果物が少量と備え付けのテレビ。外の光を遮るカーテン。洗濯関連のタンス。花瓶と水差しもあったか。
「何キョロキョロしてるのよ。珍しいものなんてないでしょ。それとも、病室自体が珍しい?」
 郁乃の揶揄に、貴明は至極真っ当に返す。
「当然の物がないなと思って。時計やカレンダー」
 貴明の見える範囲には無い。郁乃は「ああ」と得心し、
「眼が疲れる。テレビも点けるな。つまんないならお帰りはあっち」
「来たばっかで飯も食ってるからまだ少しいるぞ」
 言いつつ、見舞い品のバナナに視線が泳ぐ。果物って年取ると野菜以上に食べなくなるんだよな。
 そんな懐古的思考の貴明の耳に、嘆息めいた疑問が捻じ込まれる。
「何しに来たのよ、あんた」
「ん? ああ、そうだった。俺ってお前にどう思われてるのかなって」
「変態」
「……いや、分かってたけどさ」
 それでも間髪入れずの即答に、貴明のハートはボロボロだ。
 一人暗くなっている貴明に、意外な言葉が掛けられた。
「この間はありがと」
「え?」
 知り合ってまだ二回目だが、有り得ない言葉過ぎて貴明は空耳かと思った。
「だから、布団掛けて帰ったでしょ、あんた」
「あ? ああ」
 ポンと手を打つ貴明。
「大した事じゃないだろ。寧ろ怒られるかと思った」
 郁乃は心外だと視線の棘を増やす。
「勝手に体に触ってセクハラだ、とでも? あんたの定規で測らないでくれる? 何もされてないのは分かるし、あたし、神経のある親切には礼を言う方よ」
「そりゃ悪かった」
「けど、初対面の人間の前で寝たあたしも気が抜けてた。襲われたら途中で気付くけど」
 郁乃は貴明に言うだけ言って、水差しを口に付けてゴクゴク水を飲む。
「終業式にこんな所に来るなんて、暇人なのね」
 郁乃の指摘は今度ばかりは的外れだった。貴明は環にこのみに雄二、この三人に釣りに誘われたのを、友人の妹の見舞いに行くと断って来たのだ。まあ、こんな事を告げる事こそ無神経だろう―――


 時刻は二時過ぎ。投薬以外にもあるリハビリの予定があって面会は終了した。リハビリが終われば夕方また面会出来るのだが、「一日に何度も来るな」と郁乃に追い出された。
 結局郁乃の持つ貴明の評価は変態のままだった。身から出た錆でも自分の評価が変態なのはやや寂しい。尤も、あそこまで堂々と言われると、郁乃の生意気さも相まって親交表現にも思えてくる。事実として、愛佳と一緒に帰るのも許してくれているのだし。
(……己惚れ過ぎだっての)
 解釈の都合が良すぎる。郁乃が聞けば更に危険人物扱いされるだろう。
「河野くん、お願いがあるんですけど」
 貴明が自問自答している病院からの帰り道、愛佳が遠慮がちに切り出した。
「もしよかったら、郁乃のお見舞いにまた来てくれませんか? や、や、暇な時でいいんですけど」
 珍しい。遠慮女王の愛佳が自分から頼み事をしている。しかも頼み事をしつつ遠慮している合わせ業だ。これを断れる人間はいない。貴明もまた、例外ではなかった。
「分かった。電話番号分かる? 見舞いに行く時電話してよ。行けそうだったら行くから」
「え? あ、ほんとに都合付く時でいいですから、一人で行った方が」
「いや、一人で行くと何を言われるか」
「でも、電話掛けるの、殆ど毎日になっちゃうし……」
 申し訳無い思いから愛佳が顔を伏せる。貴明の両親が転勤して一人暮らしなのは、遠巻きに聞いた会話などで知っているからそちらの心配はしていないが、毎日では催促しているようで気が引ける。
「じゃあ、こっちから…って、不味いか」
 愛佳の両親が出るかもしれない。愛佳もこくこくと頷く。携帯電話を持っていない不便さを嘆くのはこういう時なのだろうかと、 愛佳は高校の入学祝に携帯電話を買って貰わなかったのを後悔した。
「やっぱり、そっちから電話掛けてよ。大丈夫だから」
「で、でもぉ」
 食い下がる愛佳に貴明は首を振る。
「でもじゃない。用事のある時はちゃんと言うから気にしないで」
「う、うん。分かりました、のよ」
 伏せた顔を上げて頷く。言葉はおかしくなっていたが、綺麗な笑みを浮かべていた。







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