「起床ーーっ!!」
声と共にカーテンが開かれる音がする。晴天の陽射しを受け、貴明は夢現のままゆるゆると瞼を開ける。
「起きた? タカ坊」
「何でタマ姉が俺の部屋にいるの?」
そこにはさも当然と言わんばかりに、最近返って来た容姿端麗眉目秀麗な姉貴分の姿があった。
「地域社会への貢献も兼ねたタカ坊の生活態度の見直し。部屋に入ったのは、忠告したのに鍵の隠し場所が前と変わってなかったから。入って下さいって言ってるようなものね。嬉しいけどやっぱり定期的に変えないと危ないわよ?」
「あ、うん。そうだね」
環の意見に肯定する。現実に今、危機感を味わっているわけでもあるし。
「で、何でベッドの上に乗ってきてるんですか?」
「それはタカ坊が可愛いくて仕方無いからよ。起き抜けでパジャマ姿のタカ坊~」
ぎゅーっと、男なら誰もが羨む美女の抱擁。おまけに柔らかく弾力のある物まで立派に育っている。これで落ちない男はいない。
「い、痛い痛い痛いっ!!」
些か力が強すぎた。背骨がバキバキ鳴る音がする。これでは別の方面にオチてしまう。
「姉貴、その辺で勘弁してやれよ」
部屋の入り口から雄二の声が割って入る。あくまで声だけで、行為そのものを体を張って止める事はしてくれない。親友の無事よりも自分の身の保身を図った素晴らしい友情である。
「ふわぁ…タマお姉ちゃん、早くしないと眠いよぉ」
本来朝が苦手なこのみ。一度起きれば何とかなるが今日は早すぎる。貴明の部屋の時計はまだ五時を回ったばかり。このみは二人の環による一方的なスキンシップを邪魔するのに罪悪を感じつつ、欠伸を漏らした。
「あ、そうね。それじゃあタカ坊、早く着替えてジョギングに行くわよ」
「断定系? 拒否権は?」
「無いわ。ぐずぐず言ってると着替えさせちゃうわよ?」
「だあっ。着替えるから早く部屋から出てってよっ」
「別に気にしなくてもいいのに」
雄二、このみに続いて渋々と環も部屋を出て行った。
六時十分。環にとってはいつものジョギングよりも時間を掛けた早朝運動だったが、終わってみれば男二人の死体が並んでいた。
「だらしないわね~。男だったらこれ位口笛吹きながら走りなさい」
「タ、タマ姉…無茶っ…言わないで……っ」
「け、健全な……帰宅部の男子高校生は…っ。朝から十キロも走んねえ……っ」
息絶え絶え。反論するだけ立派である。何だかんだで一時間内で十キロ走ってはいるし。
「九条院じゃ日課よ? 全く、このみを見習いなさい」
「え? わたし?」
振られるとは思っていなかったのだろう。キョトンとしたこのみの声。そう、このみは多少呼吸を早めているだけで、環のペースに付いて行っていた。
「チビ助は別だ……っ。オレ等に比べてずっと身軽なんだよっ……余計な肉も無えし」
「えへ~。ありがと」
雄二の悪態はセクハラ発言だったが、このみは好意的に受け取ったらしい。助かったな。このみが勘違いしてくれなければ地獄を見ていただろう。
「明日から少しずつペース上げていくから、二人ともしっかり付いてきなさいよ」
「鬼姉……」
あ、と思う間も無く、ボソリと呟いた雄二の失言に環の右手が伸ばされた。
「あだだだっ!! 割れる割れる割れるーーーっっっ!!!」
朝っぱらから河野家のご近所一帯に響くだけの大音量で、雄二の悲鳴が木霊した。
「朝ごはん作ってあげるから、ゆっくり休んでなさい」
「タマお姉ちゃん、このみも手伝う~」
ジョギングでバテた貴明と、別の要因も加わって瀕死の雄二男二人をリビングに残して、環とこのみ女二人でダイニングへと踵を返した。
「いや、正直食べたくないんだけど」
「ダメだよ、タカくん。朝ごはんは一日の活力源なんだから、しっかり食べなきゃ」
「そうよ、タカ坊。それに一食抜いたりおかしな時間に食べたりすると、太っちゃうじゃない。私は今のタカ坊の抱き心地が一番気に入っているんだから」
貴明の意見は、二人の真面目すぎる反論で抹殺された。
結局、貴明と無理矢理覚醒させられた雄二は胃が拒否しているにも拘らず、結構な量の料理を詰め込まされた。並んだ料理は非常に美味だったのだが、吐くのを堪えて食べた二人にそれを分れというのも酷だろう。
そして地域社会福祉で公園の緑化運動。無は無い。有が確定だった。
「はいはーい。皆よく頑張ってくれたわね。午前はここまででいいから休憩にしましょう。ご飯を食べたりした後も、暇だったら手伝って来てね」
ボランティアの担当の人よりも子供の扱いが上手い環が、よく通る声で午前の解散を発表する。
午後十二時半。待ち望んだ休憩兼昼食の時間だった。
「あー。疲れたぁ~」
貴明はベンチに体を大の字にして座り込む。地面を見てばかりで腰が痛い。昼食は一度家まで帰ってカップ麺でも食べようかと考え始めた所に、後頭部にこつんと硬いものに触れられた。
「タマ姉?」
顔だけで後ろを見る。環が水筒を持って笑っていた。
「お疲れ様。お弁当皆の分も作って来たんだけど、食べる? このみに聞いてるわよ。家に帰ってもインスタントなんでしょ」
「いいの? タマ姉」
「ええ。―――ほら、雄二もしゃきしゃき動く! お昼にするわよ!」
環のお弁当は非常に美味しかった。
午後からの活動にも強制参加だった貴明が家に帰って来たのは、五時を回っていた。
「つか…れた~」
貴明は部屋のベッドに辿り着くより近いリビングのソファに倒れ込んだ。疲労と朝の分の睡眠時間を取り返したい。食事と入浴は仮眠を取ってからでも遅くあるまい。
瞼を重ねる。意識は数える前に落ちていった。
貴明はもそもそとソファから起き出した。寝惚け眼で時計を見る。八時十五分を指していた。念の為に言っておくが外は暗い。概ね予定通りの睡眠時間だ。
軽く伸びをして、夕飯を食べようとダイニングへ足を運ぶ。壁面のスイッチを押し、電気を付ける。テーブルの上に何か置かれていた。
ラップをされた皿。それにテープで貼り付けられた紙一枚。
貴明はまず紙を取った。
『タカくん、今日はお疲れ様。夕ご飯お裾分けに来たけど寝てたから置いて行くね。
このみ』
皿に盛り付けられているのは春の七草を使った肉じゃがだった。
「サンキュ」
明日二人に礼を言わないといけないな。
貴明は肉じゃがを温め直し、ありがたく頂いた。
浴槽にお湯を張り終えるまで暫しリビングで待機。その内に尿意を催し、トイレに行こうと廊下へ出た。
道すがら、電話機が眼に入った。留守電マークが点滅している。
「何だろ?」
はて、留守電されるほどの用事はあっただろうか? 第一そこまでしそうな主な人間とは今日一日中一緒にいた。
取り敢えず再生してみる。
『一件です』
このいっけんて一件なのか一軒なのか一瞬混乱するよな。貴明は意味の無い考えを払拭し再生メッセージに耳を傾ける。
『―――えっあ。ご、ごめんなさいぃ』
受話器を置く音がして、発信音がした。これで終わりらしい。
「間違い電話? って、留守番電話じゃ分からないよな。それに聞き覚えも……」
貴明はそこまで声に出して考えて、一筋汗を流した。
「小牧だ」
あの穏やか通り越してのどやかな声。若干舌足らずな感じがする言葉尻。
という事は、内容は郁乃の見舞いだろうか。
「あちゃ。悪い事したな」
こっちには明日謝らないといけないな。そう思考して、貴明ははたと気が付いた。明日、愛佳が見舞いに行くとして、電話をかけて来るだろうか?留守番電話にごめんなさいするような愛佳が。
「五分五分?」
思い込みの割合も多いが、貴明の出した結論は委員長を知っている者なら三分の一は出しそうな解答である。
では、今、自分から謝罪の電話を入れるべきだろうか? しかし家族が出たら……
貴明は尿を足しながら熟考した結果、電話する事にした。学生名簿を引っ張り出し、家族が出ない事を祈りつつ、その場合の想定もしながら番号をプッシュする。さあ、コール音。鳴らしてしまったら覚悟も決まった。
ノイズが入って、次に受話口から聞こえたのは
『もしもし、小牧です』
「よかった。小牧だったか」
貴明は小牧が出た事にホッと胸を撫で下ろす。覚悟を決めた筈なのにチキンな男である。
『えっと……もしかしてですけど……』
「俺、河野貴明」
『え、ええぇ~! あ、あぅわぅ。こ、河野くん? な、何で?』
愛佳は驚きで声が膨らませ、それを抑え、最後には潜める様な声だった。
「何でって、電話入れてただろ。誘ってくれたのに不在だったからさ」
貴明も釣られて声を潜める。受話口から聞こえる声は案外大きい。家族が近くを通れば性別ぐらい分かられてしまうだろう。
愛佳の声は案の定すまなさそうな調子で
『い、いえ。都合の付く時だけって約束だったのに、留守番電話まで入れちゃって』
「うん。用件も名前も言わないで切られてたから吃驚した」
『ご、ごめんなさい……』
しまった。沈ませてどうする、俺。貴明は空いている手で自らを煩わしそうに頭を掻く。
「俺が言いたかったのはそう言うんじゃなくて。めげずにまた誘って欲しいなって。ちょっと今強制的に地域社会に貢献させられてるから中々出られないかもしれないけど」
『い、いいんですか?』
「いい、いい。ついでに言うと、明日行く予定なら明日行くのは決定しときたい。理由は訊かないで」
『は、はぁ』
まさか最近帰って来た姉貴分に朝から健全すぎるスケジュールを組まれている可能性があります、とは言えまい。
『じゃあ、何時頃にしましょうか?』
「そっちに合わせる。あ、でも午後からの方がいいかも」
環は毎日弁当を作って来てくれるらしい。喜んだ翌日にいきなり拒否するのは避けたい。
『それじゃぁ……三時頃はどうですか?』
「ん。大丈夫。でも無理に合わしてない?」
『そんな事ないですよぉ~』
貴明の心配に朗らかな声。杞憂だった様だ。
「分かった。それじゃ、そういう予定で。遅くに悪かったな」
『いいえ。こちらこそすみませんでした』
受話口に布が擦れる様な雑音が入る。電話の向こうで頭を下げている愛佳が眼に浮かぶ。
「じゃ、おやすみ」
『あ、はい。おやすみなさい……えあわ』
愛佳が何か動揺している声を出していたが、貴明は気付かなかった。
明日は今日の昼までのメニューに加え、あの生意気娘の見舞いだ。充分に睡眠を取らないと。手始めに、貴明は張り終わっている頃合の風呂に入る事にした。