「春休みにまで来るなんて、あんた友達いないの? ああ、変態にいるわけないか」
愛佳がジュースを買いに出て行った途端、郁乃が辛辣な言動を飛ばす。的は当然貴明だ。
春休みになって、これを機会に来なくなればいいと思っていたのに、この男はまたやって来た。郁乃は唖然とした息を漏らす。
「失敬な。これでも友達は並ぐらいはいるぞ」
「類友が?」
「失敬な―――」
言い返してから貴明の顔が若干暗くなる。郁乃は貴明の交友関係を知らないが、貴明の親友の雄二はああ見えてメイドマニアだ。マニアが変態のカテゴリに属すのかは熟考の余地がありそうだがあの執着振りはかなり歪んでいる。
まあ兎も角、郁乃がその表情(隙)を見逃す筈が無い。
「いるんだ、ホントに。出入り禁止にするよう係の人に頼んだ方がいいかな」
「待て。あれは変態じゃない。犯罪関連とは関係の無いマニアなだけだ」
反射的な貴明の受け答え。貴明の中では犯罪者にカテゴライズされなかったらしい。
その素直な物言いに、郁乃は特に驚いた風も無かった。マニアならしょっちゅう見ている。医療という職業を額面通り一職業として選んだ人間は今の世の中多いらしいが、極一部、人を助けたくて選んだ者や生命の探求として選んだ人間は立派なマニアだからだ。
「何のマニア?」
貴明は言い淀む。正直に答えて良いものか。咄嗟に何か建設的なマニアが思いつけばいいのだが、何も思いつかない。黙秘権はマイナスにしか働くまい。貴明は覚悟を決めて呟いた。
「…メイドマニア。それもリアル限定ロボット可。家政婦しかいなくて屈折してるんだ…」
「あ~…そう」
郁乃にはメイドと家政婦がどう違うのか分からない。貴明にそれを訊くのも癪だった。訊かれたところで貴明も分かってはいないのだが雄二曰く『家政婦とメイドには越えられない壁があるんだ! かの有名なベルリンの壁の様に!』それ崩れただろ、というのはツッコムべきだろうか。
陽が沈み、姉とあのバカを帰した静かな病室。夜の病院食も食べ、藍色の空が窓越しに覗く。
郁乃は常々の生意気なダウナーの表情を幾分柔らげてベッドに座っていた。新しい治療法を始めてからこっち、調子は悪くない。唯、やはり眼の調子がおかしい気がする。将来的には視えなくなるかもしれない双眼。これさえまともなら体力が維持出来ると言う、足手纏い。郁乃は杖を使ってベッドから降り、箪笥の四段目から自分が籍を置いていた中学の教科書を取り出す。通ったのは入学式と、特に体調がよかった日に数度。両手で足りる。形だけの卒業証書は二週間ぐらい前に貰った。思い入れは無い。郁乃にとって、中学は入学して卒業しただけの場所だ。
郁乃は栞を挟んでいるページを細い指で直接開き、読み進めて行く。ああ、やっぱり眼が痛い。余り一度に進めると頭痛まで始まってしまうから、休憩を頻繁に挟みつつ読み進めて行く。
消灯時間手前、教科書を片付けてベッドに横になる。休憩を覗いた読書時間は二十分程度しか経っていない。一日で見ると一時間ちょっと。学生の勉強としては明らかに足りない量。見舞いがない日はもう少し読めるが、どっちがいいとは思わない。どちらも郁乃にとって大切な時間だ。
ベッドに潜り込んでふと思う。あのバカはまた来るのだろうか。自分の自問に郁乃は比喩表現で頭が痛くなった。春休みになってもまだ来ている人間だ。どうせまた来るだろう。姉の点数稼ぎはやめて欲しいんだけど。大体姉は男が苦手な筈だったのに、遠慮はしても迷惑そうな素振りがない。ああ、つまり姉も信頼しているのだろうか。正直腹が立つ。あんな男の何処がいいのだろうか。
―――それでも信頼されているのは、羨ましい。
郁乃は生まれただけで両親を姉から奪ってしまった。なのに姉はいつも自分を気遣う。頼りない、だけど自分一人でやろうとし、実際にやれる姉。勿論苦労は多いだろう。この体がもう少しまともだったら、絶対に助けてあげるのに。いっそ嫌われている方がマシだった。そうすればこっちも嫌える。そもそも好きになる要因が無い。
「お姉ちゃん子だ、あたし」
閉じた瞳の裏に姉の姿を描く。祝福してやるべきなのに、自分が出来なかった事を実現させているあの男を思うと悔しくて堪らない。
「こんな体で頼ってもらえる訳ないけどね」
郁乃が立場を変えて考えてみても絶対に頼らない。足を引っ張っているのは何より彼女こそが知っている。
ベッドに沈む体の感覚がふわふわとしてきた。もう寝よう。あの男が来たら精々苛めてやろう。まだ付き合ってもいないようだし、この程度の障害で姉を諦める軟弱は要らない。少なくとも自分の前でイチャイチャさせて堪るか。
思考の流れが貴明から始まり姉の事にシフトし、また貴明で終わっている事に郁乃は疑問を感じず睡魔に身を委ねた。
「くかー。ぐー」
……訂正。豪快に眠り込んだ。
そんなこんなの郁乃にとって予想外の邂逅は、この後もこの青年が通う形で続けられた。
或る時は、
「今日も来たの」
「ああ。暇人でな」
「あっそ。暇なのは勝手だけど、バカの相手をさせられるこっちの迷惑も考えなさいよね」
「迷惑か?」
「そう思うなら来るな!」
「郁乃、そんな事言わないでっ」
また或る時は
時間通りに来た二人の物音で半分夢の中のまま郁乃は上半身を起こす。
「あ~~~」
「小牧、こいつどうしたんだ」
「郁乃、寝起きはいつもこんな感じで」
「何かこれはこれで病気みたいに見えるな」
「ぅん…ぅん?」
貴明にこんな失態を見せたりもした。
更に或る時は、
「これで六日目」
「あん?」
「春休みに入ってから一週間しか経ってないのに、見舞いに来るのが三回目」
郁乃は察しの悪い貴明に面倒くさそうに言い直して説明する。
「そう言えばそうなるのか」
貴明は環に町内美化等を手伝わされたりもしているが、見舞いに行くと言えば強制はされない。一種逃げ道として使用しているのかもしれない。
「そんなに姉と一緒に居たい? 惚れでもした?」
「何でそうなるんだよっ?」
「何がですか?」
「うわっ!?」
シーツの取替えから戻って来た愛佳に、貴明は心臓が引っ繰り返る思いだった。幸い会話は聞かれていなかった。
そんな郁乃が貴明をからかい、貴明が赤くなったり噛み返し、姉がフォローする生温さが、日常になっていた。