「あ~~~……」
 手術予定時間まで二十分弱。郁乃が気の抜け切った顔で意味不明な節を上げた。
「大丈夫なのか、郁乃ちゃん?」
 雄二の疑問はこのみと環も同様のものだった。眼鏡を掛けた由真は苦笑いしている。
「寝起きはいつもの事だ」
「手術の為に、昨夜から食事も抜いてるし」
 経験者二人の適切な説明。手術という事で学校を休んできた六人の緊張が一気に解けてしまった。
 郁乃は焦点の合わない上、タレ目を全開にしたまま辺りを見回す。
「うん…うん…」
「何か突然頷き出したな」
「これもいつものことで」
「うん…うん…」
 何にでも頷く郁乃にそんな、雄二が閃いたと手を打つ。
「貴明とCまでいっ!?」
 皆まで言う前に、雄二は環のアイアンクローで断末魔を上げさせられた。ちなみに行ってない。デートは専ら病室だ。第一、体に障るだろうに。
「うん…んぅ?」
 雄二の悲鳴が五月蝿かったのか、不快そうにする郁乃の眼の焦点が合ってくる。最初に見えたのは貴明だった。
「ああ、来てたの」
「若干一名、尊い犠牲が出たけどな」
 床に倒れ伏して物言わぬ雄二へのフォローはそれだけだった。

「小牧郁乃さん、お時間です」
 手術時間も迫り、看護士が報せる。カラカラ鳴るストレッチャーの滑走音が耳に付いた。
「歩いていけるのに」
「儀式儀式」
 ストレッチャーに乗せられ搬送される郁乃。
「付き添いの方はここまでです」
 待合までで付き添いは終わり。希望すれば見学ぐらいは許されるかもしれないが、やめておいた。
 口々に励ましの言葉を掛けて長椅子へと座っていく。難しい手術でもないのにと郁乃は穏やかな悪態を衝いた。
「いくのん。治ったら一緒に学校行こうね!」
 唯一同い年のこのみ。中途入学枠までに体力が回復し、且つ運が良ければ彼女と同じクラスになるわけだ。悪くない。
「そうね、後輩にならない為にも頑張るわ」
 このみも椅子に座り、残ったのは貴明と愛佳。
「治して、体力もついたら遊びに行くぞ」
 貴明は頑張れとは言わない。郁乃なら大丈夫だと信じている。
「あんたの奢りでね。あたし、何でも貰ってるようで、お小遣いってないの」
 通帳はあるだろうけどと、郁乃。
「俺が破産する前にくれるように言ってくれ」
「そうする」
 二人はこんな時まで軽口の応酬だった。
「郁乃、手術が終わって直ぐに、見たいものない?」
 以前と同じ。絆はそれ以上に強くなった姉が妹に訊ねる。
「特にないけど…」
「何でもいいから」
 語調は静かだが懸命に言い募る愛佳。郁乃は考えてみてこの季節の定番を思いついた。
「――――桜が見たい」

 ストレッチャーで運ばれて行く郁乃に、愛佳は呆然と立ち尽くす。
「桜って…」
 聞いていた貴明も、口の中だけで単語を転がした。何だってそんな難題を。残ってないとは言い切らないが、時期外れも甚だしい。
「時期を勘違いしてるのかも」
 眼が疲れるからと、カレンダーも、新聞も、テレビもない個室。休日も関係ない郁乃には、卒業証書と、同い年のこのみが高校に入学している。この二つしか材料が無かったのかもしれない。
「あたし、探してみるっ」
 駆け出そうとする愛佳を貴明が手を引いて止める。振り返って文句を言おうと思った愛佳だが、先に貴明が口走った。
「一人で行く気か? 俺も探す」
 言った貴明の肩を、環が叩く。
「二人で探す気? あたし達も探すわ。ね?」
 環の鬨の声に、幼馴染両名のみならず、由真も頷いた。

「あのマスコットは?」
 ストレッチャーに押される郁乃は押してくれている一人の見慣れた看護士に訊ねる。看護士はマスク越しでも分かる笑みを漏らした。
「置いてあるよ。ビニルパックの中だけど」
 先日手術室に置くよう言われた人形。流石に殺菌もせず置くわけには行かないし、殺菌で万が一変質されても困る。選んだ案は殺菌したビニルパックの中だった。
「ありがとう」
 看護士の言葉に、郁乃は安心して眼を伏せた。


 貴明達は街の桜のある場所を二組に分かれて片っ端から当たっていた。こんな時、全員が携帯電話を持っていれば完全な分担が出来るのだが、現実に持っているのは雄二と由真だけだ。
「俺達は桜並木から雄二の家の庭まで行くっ。そっちは学校を頼む」
「了解っ」
 分かれ道で手早く散開する。手術が終わるまで三時間。バスと時間が合わない為往復の時間を考えると、それぞれ目的地に着いてから一時間半ちょっとしか時間がない。
 残り二時間二十三分。貴明、雄二、愛佳組桜並木到着。
「くそっ。殆ど若葉だっ」
 記憶に無かった通り、桜は散り蒼い若葉が付いていた。
「それでも、少しぐらいは残ってるかも」
「兎に角探すぞっ」
 両端と中心にポイントを分け、それぞれの分担に駆け足で向かう。桜はまるで無い。
 枝と、落ちてしまった花弁でもいいから地面を探して頻繁に首を振る。照り付ける太陽が憎たらしい。少しは気を遣って雲に隠れろっ。
 痛くなった首を横振りで誤魔化して捜索の手は止めない。散った花弁一枚すら残っていない。雨で流れたか、それともボランティアが清掃してしまったか。
「きゃっ」
 木々を睨みつけていた貴明は、誰かと肩がぶつかった。
「あ…」
 ぶつかる相手は他にいない。真ん中を担当にしていた愛佳だ。奥から向かっていた貴明とぶつかったという事は―――
「…無かった?」
「…」
 声も無く頷く。残った望みは雄二だけだったが、陰りの表情で走る雄二に言われずとも悟った。
「まだ雄二の家があるっ。急ぐぞっ」
「あ、ああ」
 貴明も、相槌を打った雄二もそれが気休めである事ぐらい分かっている。
 向坂に住んでいる雄二は桜が咲いていた記憶は五月に入ってこっち、眼についた範囲ではとんとない。おまけに家政婦が毎日庭掃除してくれている。プロの仕事である以上、ここよりずっと確率は低い。貴明だって分かっている。だが、雄二は言わずにはいられなかった。

 ―――結局、向坂の家でも見付からなかった。手術終了の時間が押している。もうこれ以上は探せない。
 雄二が一縷の望みを懸けて、見付かった時以外書けない約束の番号を呼び出す。
 二言三言交わして、携帯は切られた。
「……あっちも無えって」
「「「……」」」
 誰も言葉を発する事が出来ない。それでも否応と時間は過ぎていく。
「帰るぞ、貴明、いいんちょ。手術に遅れちまう」
 実時間にして不採取報告から二秒。雄二が二人に決断を促した。
「向坂くん、もう少しだけ」
 採取に乗り出そうとした愛佳はまだ渋る。
「駄目だっ。お前らは手術が終わった時、傍にいてやんなきゃいけねえんだよ。それで開口一番に『探してみたけど桜は季節じゃ無かったって』あっさり言ってやらなきゃならねえんだよっ!」
 それは雄二なりに郁乃が無駄足を踏ませた罪悪感を感じさせないように配慮した光景。きっとそれが、正しい選択。貴明は踵を返し、門へ向かう。
「たかあきくんっ?」
 愛佳の責める声が聞こえる。貴明も諦めると思ったのだろう。
 貴明は振り返りもせず、背中越しに言った。
「幾ら探してもここにないんだったら、別の場所を探せばいいんだろ」
「貴明っ」
「手術から遅れようが知った事か、あの時間間隔ゼロ娘に桜を見せ付けてやらなきゃ気が済まない」
 貴明の決意に愛佳も駆け出した。
 雄二は頭が痛いと額を押さえる。
「貴明っ」
 貴明が如何を訊ねる前に、後頭部に鈍い衝撃が走った。
「わわわっ……と」
 愛佳が貴明の後ろで慌てた声を出す。
「何するんだよっ!」
 貴明も流石に振り返り、雄二に怒鳴った。
 雄二は涼しげな顔で貴明の隣―愛佳を指差す。
「携帯、貸しとくぜ」
 どんなに離れていても、手術の成否が伝わる様に。
 貴明は投げられた怒りは忘れ、
「サンキュ」
 再びあるとも知れない桜探しへ歩み出した。


「あれ、愛佳泣いてる?」
 門を出て、桜の充てを相談しようと傍らの愛佳を見た貴明は頓狂な声を出した。
「えっ? そんな、まだ多分、泣いてないと思いますよ?」
「けど」
 愛佳の目元に雫が付いている。恰も涙の様に。
「たかあきくんだって泣いてるじゃないですか」
「嘘っ」
 恨み半分に歯を食い縛りこそすれ、眼は涙どころか使い過ぎで乾いて痛いぐらいだ。しかし擦ってみると、確かに水滴が付いた。貴明に倣って触ってみた愛佳も同様らしく、不思議そうな顔をしている。
 ちらりと、白い影が過ぎった。
 ハラハラと散る白影。その様はまるで桜の様で。気付いていない愛佳を差し置いて、貴明は近くに舞って来たそれに手を伸ばす。触れた桜は液体へと融けた。
「は、はは」
「たかあきくん? ―――っ」
 顔を覆い、今度こそ本当に涙を流して笑い出した貴明に、愛佳は訝しげに呼びかけたが貴明と同じ物を見て息を呑んだ。
 恐らく雄二も、環達も、いや、街全体が気付きだしただろう。
 白い桜。融けて儚く消えるその正体は。


 郁乃が包帯を取って最初に見たのは、自分の手術の担当医と、その後ろでにまり顔で立っている世界一好きな男女だった。
「見えるかい?」
「はい」
 当然の結果。郁乃は失敗する恐怖など持っていなかった。
 鷹揚に頷いて、担当医が後ろの二人に声を掛ける。
 二人は空砲が鳴らされたランナーの様に郁乃に群がった。
「よくやった、郁乃!」
「やったね! 郁乃!」
「う、うん」
 貴明と愛佳が勢いに押され「当たり前でしょ」という言葉ではなく、単純に頷いただけだった。
 取り敢えず二人は祝辞だけすると、一歩引き、咳払いまでした改また態度を取る。
「さて、郁乃。お前は桜を見たいと要求したよな?」
「…そうだけど」
 何か問題があっただろうか。
「でもね、今五月十四日。時期終わってるの」
「…知らなかった」
 本当に。手術の日程を伝えてくれた担当医も、郁乃に分かり易く何日後としか言わなかったのだ。
 郁乃は申し訳なく恋人と姉を見る。二人が汗を掻いているのは、もしかしたらそれでも尚探してくれたのだろうか。しそうだった、この二人なら。
「ごめん。無駄足踏ませちゃって」
「うん。桜は見付からなかったんだけどね」
 無理難題に、素直に頭を下げた郁乃に愛佳は言葉を途中で切り、カーテンが引かれている窓に寄っていく貴明を見た。郁乃も釣られて恋人を見詰める。
「代替品は、くれたかなっ」
 音を立て、貴明が窓を剥き出しにする。
 見えるのは病院の外の風景。太陽も昇って、陽気は良さそうだ。多分、何の変哲もない景色。外を頻繁に見る事は無かったが、最後に見た記憶と殆ど変わってない平穏な眺め。現在が、五月である事を除けば。
「桜…じゃない。雪…?」
 郁乃が忘我のままそれを評す。
 街に振るそれは、桜と見紛う鮮やかさの、季節外れの白雪だった。
 貴明の郁乃を想う願いは叶った。本物とまではいかなかったが、春に雪が降る奇跡という形で。






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