郁乃は不愉快だった。今病室には二人、自分と姉だけ。貴明はいない。郁乃にとって最初ならば今の状態が理想であり、そうでなくとも以前の状態に戻っただけだった。唯一違うのは、姉の表情が優れていない事。無理に明るく振舞っているのが見え見えだ。貴明を追い出してから、そんな表情が増えている。それ程ショックだっただろうか? 或いは、会っていないのだろうか。多分会っていないのだろう。愛佳は病室でも貴明の話題は出すが、郁乃が不機嫌になるので今は極力触れないようにしている。姉は器用ではないから、話題にしないよう努めながら会っているなんて真似は出来まい。
 悔しいが郁乃が思っている以上に、貴明は愛佳の心に食い込んでいるらしかった。
 姉にこんな顔をさせるあいつ。ああ、腹が立つ。大体二度と来るなとは言ったが、姉にまで会わないとはどういうつもりなのか。偉そうに説教を垂れて、友達以上恋人未満の関係の人間の妹と喧嘩したぐらいで諦めるなんて。
『昨日、河野くんから電話があって伝えてくれって。ごめんなさい、言い過ぎたって。その内直接謝りに来る。そう言ってたよ。その時は許してあげて、ね、郁乃』
 出来事のあった翌日の姉の言葉。言葉に反して河野貴明は未だに顔を見せない。謝罪すら人伝で済ます。男が苦手な姉の選んだ男にしては、不出来過ぎて泣けて来る。男が苦手な女が気に入ったからといって、上等だというわけでは無いようだ。自明の理ではあるがこんな形で確認するとは思わなかった。
 爪楊枝をパイナップルに刺す。夕飯前に小腹が空いて、看護士に切ってもらった。冷えていないが、常温保存の方が瑞々しさが殺されてなくて好きだった。長期間の保存が利かないのが欠点であるが。
 人も同じ様なものだ。刻一刻と変化する。過ぎ去った時は戻らない。
 郁乃は自分の体を嘆かない。意味が無い事を知っている。悲劇のヒロインも薄幸の少女も似合わない。郁乃は自分の体を受け入れた上で、より良くしようと向上心を持っている。では何故、貴明を相手に怒ってしまったのだろうか。二、三日考えてみて郁乃は頭が痛くなった。最悪の結論だったからだ。
 尤も、どんなに考えようが相手が謝りに来ない限りは、暫くは無いであろう外出許可時に忘れた頃にこちらから顔を出す位しかなく、それだけ経てば既に思い出だ。そも、そこまで謝罪に来ない男に用は無い。
 郁乃は嘆息する。姉も自分も、現在思い出になっていないのが不思議だった。
 コンコン。
 ドアが二回叩かれた。果て、もう夕食だっただろうか?
「俺だ、入ってもいいか?」
「―――っ!」
 郁乃は不覚にも、声だけで向こうにいる人間が分かってしまった。刺激された動悸を押さえ、パイナップルの盛られた皿の行き先をどうするかで若干慌て、音を立てずにサイドテーブルに置いた。
「……どうぞ」
 促しが届いてから開く扉。郁乃にはやけにスローモーションに思えた。入って来たのは紛れなく、郁乃の悩みの種、河野貴明だった。
「今更何しに来たの?」
「話し合いに来た。その前に、間違った事を言ったつもりは無いけど、この間は言い過ぎた。それと、直接謝るって言ってから一週間も時間経っちゃってる。この二つに関しては謝る、ごめん」
 貴明は深々と頭を下げる。郁乃がこんなに頭を下げる貴明を見るのは、初めて出会った際に愛佳への尾行を罵った時以来だ。その時よりも更に深く下げている。
 郁乃は不満だった。貴明がどれだけ真摯であろうと、頭を下げただけで許してやろうと思っている自分の心が。何とか振り払う。そんな簡単に許してやらない。
 貴明は頭を上げ、郁乃の眼を見て言う。
「それで早速だけど、この間の件―――」
「待った。謝るのそれで終わり?」
「? うん」
 間が抜けた顔で貴明は頷く。気に入らない。
「あれに関してはあたしも悪かったと思うけど、謝罪に来る約束をしておいて一週間も来なかった件に関してはあっさりしすぎてやしない?」
「でももう来るなって」
「約束は?」
 都合がよいと思う。責めるのなら入れなければよかったのだ。それこそ、『もう来るなって言った』とでも言って。
 郁乃の詰問に貴明は気不味そうに眉を顰める。
「会うのが怖かったんだよ。でも、それは単なる逃げだって由真に諭された」
 郁乃の視線に剣が交じる。
「じゃあ、由真さんに言われなきゃ来なかったんだ?」
「どうかな。でも、遅くなったけど俺は絶縁になるにしても、会って終わる方を選んだよ。ここにいるのは俺の意志のつもりだ」
 その言い方は卑怯だ。郁乃は貴明の言葉の一つを否定する。
「絶縁になんてしないわよ。言ったでしょ、あたしも反省してるって。それに、あんたあたしと絶縁になったら姉とも会わなくなるじゃない」
 今回の事はもう許してやろう。神経通ってる奴だし。
「え? 何でそこで、こ…あ~と、お姉さんが出て来るんだ?」
「会ってないわよね、今?」
「会ってないけど、街中で偶然会う確立ってそんなに高いかな」
 郁乃は思わず嘆息したくなった。この男は、あ、いや、姉もだが、恋愛に縁のなかった自分でも分かる位に気持ちに鈍過ぎる。郁乃は一人煩悶としているのがバカに思えてきた。
「もういい、今日は帰れ」
 言い捨て、パイナップルの乗った皿を取る郁乃に貴明の顔が歪む。郁乃が急に莫大に不機嫌になった理由が分からない。
 貴明が何か言葉を投げかける前に、郁乃はパイナップルを一切れ摘み、
「見舞いでも何でも連れて来なさい。バカ以外なら入れてあげる。その友達を不快にしない保証はないけどね」
 貴明の口へ放り込んだ。我ながら素晴らしいコントロールだった。





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