郁乃は治療の疲労から朝は眠っていた。サイレンの音が鳴っても寝返りを打つだけだ。病院暮らしが長いと、どんなにけたたましいサイレンであろうと慣れてしまうものである。
 郁乃は幸せそうに眠っていた。
 コンコン
 扉がノックされる。昼食を持って来てくれた女性の看護士だったが、郁乃はまだ夢の中だった。
「入るわね」
 彼女は郁乃が八歳の時からこの病院に勤めている。返事のない際の対応もお手の物。
「ほら、起きて。お昼の時間よ」
「うぅ…ん?」
「起きた?」
「うん…うん…」
 開き切っていないタレ目全開の瞳で頷いてみせる郁乃。寝起きが悪いのはいつもの事だ。
「起きなさい。起きなきゃわたしが食べちゃうわよ」
「うん…うん…?」
 根気強く話す内に、郁乃の眼の焦点が合ってくる。
「あ、鍋島さん」
「そうよ。ご飯、置いていくわね」
「はい」
 短いやり取りで彼女が出て行くのを見送る。足音が聞こえている間から郁乃は先割れスプーンを持ち、昼食に手を付け始めた。

「ごちそうさま」
 投薬まで終えて誰に言うでもなく感謝の意を述べ、郁乃は杖を取った。トイレに行きたい。一応尿瓶もあるが、使った事は無い。何でもかんでも部屋で済ますと筋肉も落ちてしまうし。人の倍以上の時間を掛けてトイレまで歩く。
 洋式で用を足して、部屋へ戻ろうと足を向ける。そんな中、姉が一室から出て来た。
「お姉ちゃん?」
「……っ郁乃っ?」
 郁乃に声を掛けられて愛佳は肩を震わせた。眼はで紅い。充血だろうか。
「どうしてそんなところから出て来たの?」
 自分の病室は同じ階層であるが、ここにどんな人達が入院しているかは詳しくない。
「落ち着いてね。大した状態じゃないから」
「うん?」
 そんな前置きをするからには自分に関係のある事だろうか。しかし大事で無いのなら落ち着くよう言う必要は無い筈だ。
愛佳は一つ深呼吸して告げた。
「河野くんが怪我して、入院したの」
「―――」
 成程。確かに驚いた。だが、
「別に生死を彷徨ったり、五体が欠けてる訳じゃないんでしょ?」
「うん。気絶してるだけ。別に異常は残らないし、直ぐにでも起きるだろうって」
「ふ~ん…」
 気絶の言葉にやや琴線が触れる。子供の頃、寝て次の朝が迎えられるか不安だった事を思い出した。
「中に入ってもいい? 見てから戻るわ」
「分かった。肩貸すね」
 個室ではないカーテンでベッドを仕切られた部屋の中。愛佳が止まったのは二列×三のベッドの内左右が挟まれた真ん中の物だった。
 開けられたカーテンの向こうには、両隣の空きベッドも利用して息を吐いている見知らぬ顔だった。郁乃は恐らく、彼女等が貴明の連れて来る友達であったのだろうと理解した。
「初めまして」
 郁乃は小さく頭を下げる。
「初めまして。貴女が郁乃さん?」
「ええ、そうです」
「そう。貴女の病室で会うつもりだったんだけど、こんな形で残念ね。聞いてるかもしれないけど、私は向坂環よ。好きに呼んで」
「あ、初めまして。わたし、柚原このみって言うの」
「オレは向坂雄二。宜しく、郁乃ちゃん」
「ああ、貴方が」
 郁乃は雄二の名前に聞き覚えがあった。
「ん? オレ? 貴明の奴何か言ってたのか?」
「メイドマニアって」
「否定しねえけど、どんな話してんだよ貴明の奴」
 苦笑する雄二を尻目に郁乃は由真が薦めてくれた椅子に腰を下ろす。
 自分より年上の筈なのに、幼く見える貴明の顔。寝息も正常。表情も満足そうで、多少でも心配したのが損した気分だった。
「郁乃、何を」
 杖を上方向に垂直に持つ郁乃の意志を愛佳が汲取る前に、
 コッ!
 鈍く且つ軽い音が病室に響いた。

「あぐぁつぅ~……」
 貴明は額を押さえ、呻きながら上体を起こした。腰に感じる感触からベッドに寝かされていた事が分かる。
「起きた? 起きたら退院許可貰ってさっさと帰れ」
「それより額が痛いんだけど、覚えは無いかな、郁乃ちゃん?」
「中々起きないから起こしてやったのよ。感謝しなさい、お兄ちゃん」
 皮肉を込めた呼称の応酬にお互い背が寒くなる。言ったのも言われたのも。
「タカくんっ!」
「とっ」
 意識が戻った貴明の胸に、このみが身を投げた。
「何処も痛いとこない? このみの事分かる?」
「あ、ああ」
「よかったぁ~」
 眼に涙を浮かべて喜ぶこのみ。由真は「先生呼んでくる」と病室を出た。ナースコールで中継するより直接赴いた方が早い。医者の一人ぐらい誰か在中しているだろう。
「ほい、チビ助。嬉しいのは分かるが、独り占めしてるんじゃねえよ」
 雄二はこのみを貴明の上から退かし、貴明の頭は郁乃がやったから腹部をショート気味に殴り付けた。
「けほっ。げほっ。何すんだよっ」
「無茶した罰。他人の為に命投げ出すのはそりゃ偉いけど、それでお前が死んだら泣く奴いるんだからな」
 雄二が首で貴明の視線を促す。嬉しさから浮かんでくる雫を愛佳のハンカチで拭かれているこのみ。拭いている愛佳自身も涙が滲んでいた。
「それに、姉貴をお前に説教させる役周りにしたくないしな」
 言いたいこと終了、と雄二は後ろに下がる。
「タカ坊、これ何本に見える?」
 貴明の眼前に、環の右手のしなやかな指の内親指と小指を折り曲げた形で差し出された。
「三本」
「貴方の名前は?」
「河野貴明」
「私の名前は? フルネームで」
「向坂環。大丈夫だよ、タマ姉」
「…そうね」
 受け答え全てに、環は憂いと満足が混濁して歪んだ表情を浮かべた。
「全く、無茶しちゃって」
「ごめん。けど、気付いたら飛び出してた」
 貴明は苦い笑いを浮かべる。思い返すに、今更ながら恐怖が湧き上がって来た。
 環は息を吐き、貴明の首に両腕を絡め抱き締めた。
「いつの間にか、立派な男の子になっていたのね」
 姉としても女としても、貴明の成長への喜ぶ環の本音(こえ)だった。

「ところで何で運び込まれたの? 詳しい事聞いてないんだけど」
 貴明は由真の連れて来た先生から完調のお墨付きを貰ってベッドから降りる。
「ああ、横断歩道に飛び出した女の子を助けようとして―――」
「車にゃ当たらなかったが転けた拍子に頭打って気絶してたんだよ。しかも助けた女の子に介抱手伝ってもらってたし」
「え、マジ?」
 貴明の記憶にない部分を雄二が引き継ぐ。
「―――バカじゃない」
 一言、本当に郁乃の一言に集約される。姉が付き合える男だからお人好しだとは思っていたが、身も知らぬ他人の為に死に掛けるとは。
「……咄嗟だったんだよ。あれ? そう言えばあの子は?」
 貴明がこうなった原因の張本人の姿を探すが見当たらない。
「サイレンの音が聞こえて来たら消えちゃったのよ。去り際、タカ坊に『礼を言う、うー。るーはもう直ぐ星に帰るが何処にいようとうーの望みをるーの御業で一つだけ叶えてやろう』そう言ってたわよ」
 環の証言に貴明は半笑いで汗を流した。少女の言動が電波過ぎる。貴明のみならず、郁乃もそう思ったらしい。
「その人、本当に怪我してないんですか?」
「私もおかしいとは思ったんだけどね。呼び止める間も無く行っちゃったわ」
 言って、環は小さく肩を竦めた。
 さて、そこからこのメンバーで大人しく帰る筈も無く、午後の治療が始まるまで郁乃の病室でお喋りしていた。郁乃は基本的に病室に籠りっ放しなので話題には富んでいなかったが、話し上手な環が場を盛り上げていた。また、雄二が郁乃を笑わそうと試みていたが、不発に終わったりもしていた。姉弟で話の上手さの差が出た感じだった。
 そしてそろそろ治療が始まる時間になって、見舞いもお開きとなった。
「じゃあね、郁乃ちゃん、また来るわ」
「元気にしてろよ。そんで次はきっと笑わせてやるからな」
「いくのん、またね」
「…うん」
 当たり前の様に再会の約束をして帰って行く、今日出来たばかりの友達。
「郁乃。また来るわね」
 由真も病室を出て、貴明と愛佳が残った。
「な、いい奴等だっただろ?」
「そうね。あんたの友達だって信じられないぐらい」
 剣の無い親しみの言葉に、愛佳も咎めず微笑むだけだ。
「じゃあな。新学期始まって来るのは減るかも知れないけど、寂しくて泣いたりするなよ」
「誰が泣くか。あんたこそどうせ頭悪いんだろうから、泣きながらお姉ちゃんに付いて行く事ね」
 軽口を叩き合って、貴明も出て行った。
「郁乃、遅くなるかもしれないけど、明日も来るね」
「遅くなるなら無理しなくてもいいわよ」
 郁乃の気遣いに愛佳は口端に笑みを浮かべて病室を後にした。

 その日の夜、郁乃は中々寝付けなかった。咄嗟でも反射でも、自らも危険に及ぶ人身事故から人を助けた貴明。命が薄い郁乃には理解しがたい行動だ。けれど、嫌な感じはしない。死ねば許さなかっただろうが、生きている今は行為自体は嬉しくも想っていた。勿論、生きているから許せるだけで、それを差し引いても助ける為に危険に曝した事自体は許せない。だから、喜んでしまった原因は―――考えてはいけないが、考える。
 頭を振って、答えを奥底に隠して、瞼をきつく閉じた。


「今日はビックリしちゃったね」
「少しね」
 知り合いが事故に遭うのは姉にとってさぞ驚愕であっただろう。
「河野くんが倒れてた時、心臓止まるかと思った」
 胸を押さえ、眼を閉じて安堵とも恐怖とも言えない表情を作る姉。
 あたしはその表情に、胸の奥が刺された。
「お姉ちゃん、あいつの事、好き?」
 あたしは外に聞こえない程度に声量を抑えて、初めて冗談の類を一切混ぜずにはっきりと声に出した疑問。
 妹の突然の告白の要求に、姉は上擦った声を上げる。
「あひっ。そ、そういう訳じゃなくて。只、死んじゃってたらと思うと、もう訳分からなくなっちゃって…」
 ああ、それは何とも道理が通っている。あたしの質問自体、会話の流れから外れているのだから。
「お姉ちゃん、隠してるけど男の人苦手だよね。でも貴明とは恥ずかしがってるけど、一緒にいられてるじゃない。何か特別に想ってるからじゃないの?」
「そそそ、そんな事ないですよっ。それに、河野くんとだって平気って訳じゃないし…」
「でも、ジュースぐらいは手渡し平気になってるよね」
 初日はお菓子の受け渡しも出来なかった二人が、春休み中にジュースを受け渡ししていたのを指摘する
「そ、それは…うん。じゃなくて、お姉ちゃんは男が苦手じゃないからそれぐらい普通だよ?」
 いやいや、バレバレだから。この状況で往生際悪く男が苦手である事を姉は隠そうとする。――虫唾が走った。
「それに、あたしなんかが資格ないし…」
 姉の苦渋に歪んだ眉と口。何があるのかはあたしは知らない。今の論点でもない。
「お姉ちゃんが資格ないなら、あたしは圏外よ」
「…ごめん、そういうつもりで言ったんじゃないの」
「あたしは―――」
 何を、言おうとしているのか。必死に口の動きを止めようとしているのに、口の筋肉も声帯も自分のものじゃないみたいに勝手に動いた。
「―――貴明が好き」


 郁乃はベッドから跳ね起きて荒い息を整える。双眸は低血圧の郁乃とは思えない程に見開かれ、全身から冷たい汗が流れて止まらない。
「…お姉ちゃん?」
 辺りを見回してみても、人はいない。暗い病室に自分一人。事故が起きたのはいつ? 今日寝る前。流石に覚えている。二人っきりでの姉との会話は? 明日遅れる旨だけ。
「ゆ…め…」
 我が身を掻き抱いている腕の力を抜く。ほつれた髪を直す気力もない。
 何でこんな夢を見てしまったのだろう。
 自覚して押し殺して、決して出さない様にしていたのに。
 出会いこそ最悪だったけれど、彼は郁乃を病人として扱わなかった。男と女らしい話なんて殆どしてもいない。なのに喧嘩して一週間来なかっただけで異常なまでの喪失感があった。あんな事で怒ったのは貴明に病人扱いされたからだ。仲直り出来た時も、憎まれ口の裏で飛び上がりたい気分だった。危険を顧みず人助けをする貴明を好ましく想ったのも、重荷にしかならない自分を受け入れてくれるかもしれないという仮定を考えたから。

 ―――飛躍と言われても構わない。貴明が好きだ。

 でも伝えられない。伝えない。それだけは禁忌だから。
 郁乃は数年振りに、哭いた。






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