「河野くん、お願いがあるんですけど」
 五時間目の休み時間、貴明を呼び出した愛佳は草々に切り出した。
「今日、書庫の整理も無理で、郁乃のお見舞いにもどうしてもいけそうにないんです。いてくれるだけでもいいですから、行ってくれないでしょうか?」
 こんなお願いが出来るのは、愛佳にとって貴明と由真だけだ。昨日環達とも友人関係にはなれたが、自分の代わりに行くように頼む図々しい願いはまだ出来ない。
「いいよ。委員長だと大変だな」
 それ以前に、管轄外の仕事まで請け負ってしまう悪い癖も直さなければいけない気もするが。
「そう思うなら立候補してよぉ~」
 二年も委員長に襲名の愛佳の、切実な呪いの言葉だった。


 病院に着き貴明は手順として受付に向かった。意外に緊張する。
 今までは愛佳が受付をこなしていた。尤も、受付をしていないだけでこれだけ頻繁に見舞いに訪れ、先日は救急車で運ばれまでした貴明は既に周知の人だった。受付を待っている人もいない事から、暇らしい看護士に話を振られる。一人が振れば、二人三人と連続で。
「愛佳ちゃんと仲いいよね? どういう関係?」
「郁乃ちゃん、君が来るようになってから少し明るくなったと思うんだけど、そこんとこどう思う?」
「君はどっちが本命なのかな~。あ、姉妹丼は止めといた方がいいよ」
「こないだ女の子たくさん来てたね。案外本命はそっちかな。まさか男の子狙い?」
「失礼しますっ」
 下世話な質問に、貴明は顔を真っ赤にして逃げ出した。

 エレベータに乗り、通いなれた病室の前まで来る。
 コンコンと、二回ノック。返事は無い。寝ているのだろうか。貴明は春休みに一度だけ見た郁乃の寝起きの悪さを思い出した。
「入るぞ」
 貴明は返事を待たない意味のない断りをしてドアを開けた。
 暖色系で纏まって、見舞い品がある以外は殺風景な部屋。唯一シーツに出来た皺がこの部屋の生活の軌跡を語っている。
「―――?」
 シーツの皺がはっきり見えても、ベッドで寝ている本人が見当たらない。
「トイレか」
 多分。そう結論付けると貴明は見舞い品の林檎を失敬し、椅子に座って待つ事にした。
 テレビであるように皮付きのままで食べてみる。妙な味はしないから皮の食感を気にしなければ平気そうだ。
ガチャ
 貴明が戯れな林檎の食べ方をしていると、留め具が外れる音がしてドアが開けられた。
「あむんぐ。よ。林檎、勝手に貰ってるぞ」
 貴明の言葉に応えず、郁乃はいつにもまして不安定な足取りで貴明に、正確にはその先にあるベッドに向かっている。何処と無く眼も霞んでいるように見える。
(寝起きでトイレに行ったなこいつ)
 よく無事に済んだものだ。ここまで足元が覚束無い上意識も朧であれば、補助の杖は逆に危険だ。咄嗟に避ける事が出来ないから躓けば大怪我をする可能性もある。
 貴明はもう僅かではあるが、歩みを手伝おうと腰を上げた。
 貴明の手が届く前に、郁乃は自分の杖に躓いた。
 靄が掛かった意識でもブレが確認出来る視界。郁乃の頭が回ったかは分からないが、次へ訪れるであろう和らげようとする反射も働かず接地順関係無しの豪快な衝撃。
 ―――は、来なかった。
 杖が転がる軽い音だけで、郁乃は床よりもずっと柔らかい感触に優しく受け止められていた。
「っと、大丈夫か」
 貴明は受け止めた郁乃に訊ねる。表情は見えないが、流石に眼は覚ましているだろう。
「あ、ありがと」
 貴明の胸に顔を埋める形で抱き留められた郁乃は、状況を把握しているらしく礼だけを述べた。
 貴明は郁乃を離そうとして、小刻みに肩が揺れているのに気付いた。
「どうしっ」
 ていうか、顔紅いんだけど。そんな女の子然とした反応を返されるとは思ってなかった貴明は離そうとしていた郁乃の背中に回していた手を思わず止めてしまう。
 そう言えばこいつも女の子なんだよな。小柄だから忘れるけど俺と一つしか違わないし。黙ってりゃ顔とか可愛いし。っていうか、どさくさに紛れてちょっと触っちゃった柔らかい感触はもしかして胸ですか。いやいや、何で俺はこんな事を考えてんだよ。友達の妹とか言う前にあの郁乃だぞ。女として見てなかった筈だぞ。何で今更動揺してんだよ!
「…ねえ」
 硬直してしまった貴明の耳に、羞恥を押し隠した郁乃の声が届く。
「助けてくれたのにはお礼を言うけど、そろそろ放してくれない?」
「っわ、悪い」
 我に返った貴明は勢い込んで郁乃から離れた。
「きゃっ」
「ご、ごめん」
 それでまた郁乃がバランスを崩しそうになって、貴明は慌てて手を取る。マヌケ極まりないやり取りだった。
 ベッドに戻った郁乃に転がった杖を回収してやる貴明。
「そこに置いといて」
「分かった」
 貴明は郁乃に示された定位置らしい場所に杖を置き、自らも丸椅子に腰を下ろした。
「今日は姉は?」
「どうしても来れそうにないって。だから俺一人」
「そう」
「このみ達誘った方がよかったか?」
「言って連れて来ても意味無いでしょ。それに昨日の今日じゃ毎日来いって言ってるようなものじゃない」
「そうだな」
「……」
 間が持たない。さっきの事を貴明は引き摺っている。
 愛佳に倣って学校の事を話してみてもいいが、残念ながら貴明は話題に富んだ学校生活は送れていない。
「ところでさ」
 対照的に、郁乃はさっきの態度は何処吹く風といった体だった。
「あんた、女の子苦手よね」
 貴明はいきなり秘密を言い当てられ鼻白む。
「そ、そんな事ないぞ」
「あれで隠してるつもりだったの? 見てたら分かるわよ。確認しなかっただけで」
「…ぅぐ」
 貴明は思い出す。雄二が一年間も同じクラスで過ごしてたら周知の事実だと言っていたのを。その際シスコンだとも言われたのを思い出して、想像の中で雄二を殴っておいた。
「姉と一緒ね。隠してるつもりでまるで隠せてない」
「別に仲良くしたいとは思ってるんだぞ。でも、何て言うか、別物みたいな感じで接し方が分からないんだよ。俺の場合はだから、お姉さんはどうなのか知らないけど」
 これは本当。実際は女の子を避けるようになったトラウマ的な出来事もあったのだが、よくは覚えていない。
「当たってたんだ。こないだの友達、由真さん含めて雄二さん以外女だったからもしかしたら姉に対してだけかと思ってたんだけど」
「えっ。カマ掛けてただけ?」
「確認しただけ」
 サラリと郁乃は言いのける。
「由真さん達は平気なんだ?」
「由真は最初は兎も角、喧嘩吹っ掛けられてる内に意識無くなったよ。このみとタマ姉は、それこそ家族みたいなもんだから」
「ふぅん。で、姉は違うと」
「…それ初日に言ったからもう言わない」
 貴明は顔ごと目線を背ける。言い訳は尤もな様でも、否定以外は肯定と取られる状況であるのに。
 郁乃も表情は変えず貴明から視線を外した。
 言われっ放しの貴明は視線を彷徨わせ、反撃材料を考える。万が一自分はどうかなどとからかわれたら愛佳への感情以上に説明に窮してしまう。
 郁乃の口から何か発せられる前に、貴明は目聡くベッドの枕の下に白い小さな紙束が飛び出ているのに気付いた。
「何だそれ?」
「―――っ」
 貴明の指摘に、郁乃は慌てて枕の中心部に押し込む。必死な動作だった。
「えっと、そんなに不味いものなのか?」
 控え目に訊ねる貴明。郁乃は誤解されるのも不快に思ったのか、不満そうに呟いた。
「―――カード」
「え?」
「だから、英単語カードっ! これでいいでしょっ」
 郁乃は恨みがましく貴明を睨み付ける。
「あ、うん」
 郁乃の形相に貴明はそれ以上の追及は出来なかった。
 その後、最初以上に空気は気不味くなった。
 それでも帰り際、一言だけ。
「体、よくなったら通えるといいな、高校」
 ドアに近付き、希望的観測を口にする貴明。その耳に、
「手術の予定はあるのよ、一応ね」
 郁乃はまだ家族にしか伝えていない事実を教えたくなった。
「眼の手術でさ。視力さえ回復すれば、通学の体力は維持出来るかもしれないんだって。夢みたいでしょ?」
「よかったじゃないか」
「そうね。失敗すれば失明だから、姉は不安がってるみたいだけど」
「…それは」
 そうだろう。けれど、あっさりと言い放つ郁乃に不安は微塵も存在していない。
「誰に言われるでもなく、自分で決めたんだけどね」
「両親は反対しなかったのか?」
「放っておいても見えなくなるらしいから、反対は出来ないでしょ?」
 それは語られていない現実。郁乃が大人びた精神面以外で余りにも普通だから見失いがちな真実。
「怖くないのか?」
「全然。簡単な手術で、間違っても死ぬような手術じゃないんだし。遠い将来少しずつ見えなくなっていって、体力も無く、何処にも行けなくなる方が後悔する」
 あくまでも自分で選ぶ。自分の意思で。他人任せの人生は作らない。
「日取りはまだ決まってないけど、今の治療法で手術出来るだけの体力が確認出来たらが、一応予定。手術の為に体力を戻して、手術をしたらまた体力を維持しながら戻さなきゃいけない。受けられるだけの体力を戻せる時期に手術方法が生まれたのも奇跡的なことなんだけど、手順が面倒よね」
「そうだな」
 貴明は心底驚いた。軽いつもりで口にしたわけでもないが、自分の憶測が現実に成りつつあったのだ。
 無意識に笑みの形に頬が緩む。失敗をまるで考えていない郁乃に釣られる様に。
「頑張れよ。当日は学校休んででも来てやるからな」
「いいわよ別に。人がいたってしょうがないんだから」
「そう言うな。授業受けてても気になって頭に入らないだろうからさ」
 成功の報を一秒でも早く聞きたいし。
「じゃあな、また来る。勉強頑張れよ」
「あんたもね。赤点取ったら笑ってあげる」
「そっちこそ、中途入学試験だろうと一年遅れ受験だろうと落ちんなよ」
 最後は軽口を叩き合った。





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