四月十二日。入学した新入生の左右が分かるようになって、新年度初めての整理作業を行える暇が出来た事を、遅刻ギリギリで登校した貴明は早朝HRが終わった空き時間に愛佳に伝えられた。最初は書庫外での私的な会話を恥ずかしがっていた愛佳から『無駄足踏ませてごめんなさいっ』と謝罪の先払いまでされていたのに、今では会話程度なら人気がないところでは普通にこなせる様になった。やっぱり予定がはっきりしている方が助かる。
「と、言う訳だから、気が向いたら来てくれ」
 貴明の伝達に、雄二は環の作った弁当から放り込んだばかりの肉入りの金平牛蒡を咀嚼し、嚥下する。
 このみが箸を持っていない方の手を高々と上げた。
「このみは手伝うよ。どんな風にやるのか、一度やっておかないと分からないし」
「オレも。どうせ暇だしな」
 雄二に『新入生の女の子に声掛けるんじゃなかったのか?』とは、環の手前貴明は黙っておいてやった。
「そうか」
「姉貴は? 手伝うんだろ」
 書庫の手伝いに参加か否かを上げない姉に、雄二が断定的に訊ねる。
 環は魔法瓶に注いできた玉露をゆっくりと喉に通す。湯飲みでも茶碗でもない魔法瓶の蓋兼コップであっても、その所作が様になっている。
「残念だけど、今日は用事があって無理ね」
 果たして雄二の想定とは異なる不参加の表明だった。
 元々強制では無い整理。貴明は然して気に留めなかった。

「今日は四人も集まったから、バーコード張りも始めようと思うの」
 集まってくれた今までにない人数への作業説明に、愛佳は嬉しさを隠し切れない様子だった。声も弾んでいる。
 愛佳パソコンを起動し、バーコードの画像を映し出す。
「黒棒の長いのや短いの。いいんちょ、これ全部意味分かってるの」
「まあね。法則性もあるし、ちょっと調べればこれぐらいはすぐ分かるようになるよ」
「そうかぁ?」
「英単語覚えるより難しそうだよ…」
 愛佳にとっては事実を告げただけなのかもしれないが、バーコードの知識が薄い貴明達には謙遜にしか聞こえない。
「そんなことないよぉ~。歴史の年号と事象、全部覚えるのに比べたら簡単だよぉ~」
「いや、それ地味に辛いから」
 貴明の切実なツッコミが入りつつ、愛佳はバーコードを印刷する。
 出て来た紙は専用でも何でもないちょっと厚いだけの印刷紙だが、貴明達は感嘆の息を漏らす。
「で、これを裁断機に掛けて」
 似たような絵が描かれていただけの紙がスパスパと小気味良く意味のある一枚(バーコード)に変わっていく。
 透明テープを長めに取り、貼り付けた余剰を切り取る。
「透明テープで保護して、最後は両面テープで表紙に……」
 慎重にバーコードをカバーを外した表紙へ下ろしていく。得も言えぬ緊張の一瞬。
「あれ?」
 愛佳の手を離した先ではバーコードがずれていた。
「お、おかしいなぁ~。紙が触れる瞬間に微風が発生するから…」
 ブツブツと原因を究明し、再度チャレンジする愛佳。
「あれぇっ?」
 またもずれてしまった。
「こんな筈じゃぁ~。うぅ……」
「えっと、取り敢えず剥がした方がいいのか?」
「ううん。読み取りには問題ないけど、ただ…」
 まあ、カッコ悪いかもしれないが。
「愛佳さん、これはどれの?」
 このみがバーコードを一枚取って訊ねる。
「えっと、それは」
 言葉に表せない悔しさを感じている愛佳だが、訊ねた事にはしっかり答える。何とも彼女らしい。
「ふんふんふ~ん。えやっ」
 このみは鼻歌交じりに作業を追って、妙な掛け声と共にバーコードを表紙に貼り付けた。
「「おお…」」
 完璧だった。ずれも歪みもない。愛佳は意味不明の敗北感を味わい、その後貴明と雄二も試したが上手くはいかなかった為に、取り敢えずの係はこのみとなった。
 後の役回りはバーコードの意味が分かるのが愛佳だけである事もあって、印刷、裁断が彼女の仕事。貴明は整理された棚から数字の古い順に本を積みこのみの元に持って行く。雄二が棚の整理となった。


 その頃、書庫から扉一枚隔てた図書室。
「用とは何かな、向坂さん」
 環は如何にも真面目そうな眼鏡の男子生徒を前にしていた。
「書庫の機能変更の再考、といったところかしら」
 環の双眸は、貴明達に向けるものとはまるで違う、標的を狩る山猫そのものだった。


 作業開始から三十分程度経って、一旦休憩を入れる事にした。
 二つのソファーの内、給湯室寄りが愛佳とこのみ、その対面が貴明と雄二となった。
 紅茶と共にいつも出されるお茶菓子の量を心配していたがストックがあったのかそれとも愛佳も期待していたのか、一人当たりを二人の時の量で維持したまましっかりと四人分出てきた。
「美味い! 貴明、てめえいつも一人でこんな美味いお茶してたのかよ」
「向坂くん大袈裟ですよぉ~」
「そんな事ないよ。愛佳さんの淹れた紅茶、美味しいよ。お茶菓子も合うし」
 相変わらず遠慮がちな愛佳にこのみも美味しい旨の言葉を掛ける。愛佳の凄いところは謙遜じゃなくて本心からそう思っているところである。
「ん?」
 礼節的に紅茶を含んだ後、スコーンを口に放る。
「ど、どうしました?」
 愛佳が不審と言うか不安と動揺の綯交ぜの声色で訊ねる。
「もしかしたらだけどさ、これ、小牧が焼いた?」
「なななな、何か変でしたかっ?」
 ソファーから立ち上がり狼狽する愛佳。それはもうこちらが申し訳なくなる挙動だった。
「いや、そうじゃなくて。味付けがちょっと違った気がしたから」
「つまり市販品とは違う味だったってことですね…」
 貴明の批評を聞き、愛佳は無念そうにソファーに崩れ落ちた。
「え、これマジでいいんちょが作ったの? 全然気付かなかった」
「凄い! 愛佳さんお菓子作れるんだ」
 雄二とこのみはスコーンを改めて口にする。その出来栄えは見事なものだった。
 実際、貴明が余り食べる機会の無いスコーンを食べ慣れていたからであって、味としては店頭の物と比べても遜色無いものだったのだ。
 二人の誉れの感想にも、見破られたショックから立ち直るには役不足らしい。
 雄二とこのみに視線で促され、貴明は精一杯感想を言葉にする事にした。
「小牧は沈んでるけどさ、食感とか全然分からなかった。味付けは手作りなんだから、小牧の好きにやっていいと思う」
 批評した人間の賞賛に、漸く愛佳も立ち直った。


「機能変更の再考というと、CDの取り扱い案に書庫を利用する事かい?」
「その通りよ」
「それは出来ない。委員会でももう決定した事だ」
 男子生徒―――図書委員会の長である彼は環の言葉を一言で伏せた。
「貴方一人が強引に推し進めた、と私は聞いているけど?」
 この情報はクラスメイトの図書委員から聞き出した確かな証言(もの)だ。
 本来図書委員が行うべき書庫の整理を愛佳一人が行っていると聞いて以来、不振に感じた環は独自に情報収集を行っていた。
「確かに、僕が主張したのは認めよう。だが、最終的には全体の意見から決まった事だ」
「会議回数を半分以下に減らし、CDの必要性だけを強調し書庫の必要性を無視した情報操作は、陰謀とは言わないのかしら?」
 環の瞳が嘲笑に歪む。図書委員長である彼の背に悪寒が走った。
「CDの取り扱いは前々からの要望でね。使う事のない書物にスペースを割く必要もないだろう。事実、僕が書庫の必要性を説かなかっただけで、委員の皆も書庫の残存について大した主張をすることは無かった。僕だって人間だからね。有益であると思う案を主張する事もあるさ。会議の回数を減らしたのは、CDの取り扱いについて意を唱えるものがいなくなった、或いは反論材料が無かったからだ」
「あらあら、貴方も書庫の書物の必要性はないと仰るのね」
「そうだ。新しい本が出ているし、二度と陽の目を見ないものばかりだ」
 「ふふっ」環は短く、最高に嘲った笑いを上げた。
「その本こそが、学校の図書室に必要なんじゃない。意味のないと思える、誤りが書いている古い書物でさえ立派な資料よ。その価値も感じられず、CD、それも音楽室を使わない辺り教養ではなく流行歌。貴方は学校の図書室をレンタル店にでもしたいのかしら?」
「……」
 環の言葉に、彼は返す言葉を咄嗟に思い付けなかった。それを見逃す程環は甘くない。
「そのCD取り扱いの要望も、図書室使用者が書くとは思えない要望ね。図書室を利用してない生徒の方が多いのに、全校生徒からアンケートを取ったんじゃない? 縦しんば、図書室利用者が書いていたとして、彼等はそんな物、自分で買うわ。でも書物はそうはいかない。一つ一つが高いし、内容の濃薄も分からない。興味のある内容のタイトルだったけど、分かりにくかったなんていうのはよくあるわ。まあこれを言うと、旧書物は借り出されないから必要ないという反論を許す事になるけど」
 図書委員長は反論の機先すら環に制された。
「だから何? 私は図書委員じゃないし、要求はCD取り扱い案撤廃じゃなく再考。再考の材料は充分与えたつもりだけど?」
 傍から見てもここにいる当番の図書委員から見ても、図書委員長の敗北は明らかだった。
「意義有る判断を期待しているわ、図書委員長さん」
 ぐうの音も出ない図書委員長と、軽快に去る環。この場に居る誰もが思っただろう。
 噂の三年の転校生、向坂環を怒らせてはならない、と。

「失礼します。へぇ、結構いいところね」
 申し訳の言葉だけで悠々書庫に入る環。貴明等の姿は直ぐ見付かった。書斎机の前のテーブルでお茶している。
「姉貴? 今日は用事があったんじゃなかったのか?」
 弟の雄二が一番に訊ねる。顔は如何にも嫌そうだ。機嫌のいい環は見逃してやった。
「言い忘れてたけど、用事って言っても学校内だったのよ。終わったから様子見に来たの。愛佳ちゃん、私の分のお茶、ある」
「はい!」
 手際良く用意してくれた紅茶とスコーン。
「んん~。やっぱり一仕事した後のお茶は格別ね」


 二日後。朝早くから登校した愛佳を同級生の女子生徒が待っていた。彼女は図書委員の委員会に入っている。普段は物静かだが、その彼女が、喜色を満面に浮かべている。
 果たしてその口から出た報は―――
「委員長、書庫の機能変更案、再考する事になったって!」






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