「――――と、言うわけで今まで黙っていてごめんなさい!」
 書庫の機能変更の再考が行われる事が決まった事を伝えられた放課後、愛佳は由真含む手伝ってくれた貴明、雄二、このみ、環にこれでもかと言わんばかりに頭を下げた。その顔はどんな誹りも覚悟しているようである。が、ここで誹る様ならそもそも書庫の整理を手伝う様なお人好しではない。
「よかったね、愛佳さん!」
「あたしはやってないけど、愛佳の頑張りが無駄にならなくてよかったじゃない」
「一人で悩んで、大変だったんだな」
「いいんちょ、今日は祭だ! 酒はヤバイがシャンパンぐらい家から持って来てやるぜ」
「雄二、校内で飲むんだからアルコールが混ざっているものは止めておきなさいよ」
 口々に愛佳への祝辞が投げられる。
「みんな…」
 友達の声援に、愛佳は言葉も出ない。胸の裡には喜びが波紋の様に広がっていた。
「再考の件についてはさ、小牧も言っていたようにタマ姉の協力も大きかったとは思うけど、書庫残存派に皆が靡いてくれたのは、間違い無く小牧の頑張りだよ」
 そう、小牧が頑張っているから。委員長だから、皆が放っておかない。茨の道も空が青ければ歩いていける。そんな小牧だから皆の心が動いたのだ。元を正せば、タマ姉の行動だって。
 感慨深い台詞を吐いた貴明の後頭部を、雄二と由真がはたいた。
「このっ。いいところ一人で持っていってんじゃねえよ」
「でも、タカくんの言うとおりだよ。愛佳さん、凄く頑張ってたもん」
 一つ一つ大切な言葉に、愛佳は悲哀ではなく歓喜から涙を零した。
「ありがとう、みんな…」

「「「「「「かんぱーい!!」」」」」」
 雄二が家から持って来たシャンパンをそれぞれグラスに注ぎ、中央で軽い音で打ち合わせる。今日は由真も祖父に断りを入れ、校内に残っていた。
「愛佳さん、今のお気持ちは?」
「凄く嬉しいです」
「強硬派の図書委員長も大人しくせざるを得ないだろうから、元の木阿弥はまずないわね」
「後はこっちがはっきりとした成果を出して相手の先手を打たないとな」
「はい。今まで以上に頑張ります」
「では、雄二、隠し芸いかせて頂きます!」
「やれやれー!」
 皆思い思いで、騒ぎに騒いだ。


 そして下校時間を大きく回った夕闇。
 貴明は環、由真を筆頭に愛佳の帰路係に任命された。愛佳は遠慮したが、押し切られる形だった。ちなみにこのみは雄二と環が。由真は断った筈の祖父が迎えに来てくれたので安心。
 書庫では騒いでいたが、その反動もあり、帰り道ではお互い言葉少なだった。息苦しさは無い。穏やかな沈黙。
「河野くん、あたし、河野くんに会えてよかった」
「どうしたの、突然?」
 貴明は愛佳の唐突な物言いに、不躾ながら眼を大きくして顔を覗きこむ。
「河野くんのお陰で、あたしの隠れ家、残るかもしれません」
「あのさ、さっきも言ったけど―――」
 貴明が否定の言葉を出す前に、愛佳は首を左右に振る。
「河野くんは、あたしを見つけてくれたから。河野くんがあたしを助けてくれたから。あたし一人だけじゃ、どうにもならなかったんです。本当に、だんまりを通すだけで」
 愛佳は二、三歩歩を早め、貴明の前に飛び出す。
「だから、河野くんにありがとう」
 藍色掛かった空の下でも確認出来る頬の紅潮、告げられる感謝の言葉。
「大した事はしてないけど、小牧の言葉は受け取っておくよ」
 貴明は照れ隠しに頬を掻く。
 愛佳は貴明の前に立ったまま、深く呼吸する。
「あたし、河野くんが思ってるようないい子じゃないんです。委員長の仕事を頑張ってるのも郁乃の立派な姉でいようって思いだけで。書庫の事から分かるように、ほんとは凄く、我侭なんです」
 そんな動機、不純な内にはまるで入らない。
「却って安心した。無償の愛とかより、そっちの方がずっと人間らしいし、きっと小牧らしい」
 貴明の浮かべる優しい微笑。愛佳は勇気を持って一歩を踏み出した。
「河野くん、我侭一つ、聞くだけでもいいですから、聞いてくれませんか?」
「うん? 出来る事なら、聞くだけじゃなくてやってやるぞ」
 貴明の請け合いに、愛佳の唇が震えた。
「あたしと、付き合ってくれませんか?」
 夜桜が何処かで一枝、散った。

 貴明は耳を疑った。悪い意味でなく、愛佳の我侭が信じられなかった。告白を受けた貴明の表情は、よっぽど気の毒そうに見えたのだろう。愛佳が両手を顔の前で振って取り繕う。
「あ、あの、我侭っていうか、単なる告白で、好きですって言うつもりだけだったのに勢い余っちゃって。だから、河野くんは聞くだけでよくて、い、いきなりこんな事言ってごめんなさいぃっ」
 愛佳は懸命なのだが、それはもう気持ちのいいぐらいの支離滅裂ぷりだった。
「へ、返事はその、別にいらないの。ただ、知っておいてほしくて。その、我侭ついでにな、名前で呼ばせてください。それで、あたしのことも、ななな、名前でぇ~」
 頭から湯気が出るかというぐらいの緊張に、愛佳はリンゴどころかトマトのように顔を紅くさせている。
「あ、えと。うん」
 愛佳は名前の許諾を受けて、混乱の表情を鮮やかに変える。
「こ、ここまででいいから。また明日っ、たかあきくん!」
 その場から脱兎の如く駆け出した愛佳に、貴明は掛ける言葉を見つけられず、愛佳の姿が見えなくなる刹那、口の中だけで言葉を転がした。
「また明日、愛佳」
 微妙な違和感だけが、口内に残った。


 一夜明け、四月十五日。
「ふぁぁ」
「タカくん眠そうだね」
 幼馴染四人の登校風景で、貴明が大欠伸を上げた。
「ちょっと眠れなかったんだよ」
 その通りに寝不足。ギリギリの時間まで惰眠を貪ればまだ幾らか違うのだろうが、今日は運悪くこのみの方が早起きで、貴明は早朝幼馴染の登校風景に間に合ってしまった。
「何かしてたの?」
「…考え事」
 嘘は言っていない。何を考えていたかを言っていないだけで。
「何を考えていたかは知らないけどおじさまとおばさまがいないからって、夜更かししてはダメよ、タカ坊。悩み事なら私達に、特に同性の雄二もいるんだから、相談できる事は相談なさい」
「姉貴、それそこはかとなく下系の性的問題って決めつけてね?」
「っ……」
 雄二の頭蓋のある箇所に環の五本の指が食い込む。
「がぎぁっ! 入ってるっ、これ入ってるってっ!! ああああーーーーーっっっ!!!」
 雄二の悲鳴を登校途中の学生は誰も気に留めない。
 通学路での雄二に対する環の一方的なスキンシップ(折檻)も、珍しくも無かった。

 このみ、環と別れて雄二と共に教室へ。開け放された横開きドアから入った二人に、正確には貴明に、駆け寄る女子生徒が一人。
「たかあきくん、向坂くん。今日は書庫はお休みで、郁乃のお見舞いに行くから、だから気が向いたらお願いします」
 それだけ言い逃げして廊下へ飛び出していった。
「たかあきくん、ねぇ?」
 雄二の恫喝交じりの厭らしい声の響きに、貴明は全身をびくつかせて隣に立つ幼馴染で残念ながら親友の姿を見る。
「寝不足はそういうことかよっ。この狼男がっ!」
「待て違うっ。誤解招くような事を教室で大声で言うな!」
 愛佳の家には両親在中。貴明の家は不在だが昨日は遅くなったから春夏さんに顔見せだけしておこうと不思議なほど冷静に判断して、ついでに夕飯までご馳走になってしまったりしているのだ。
 教室の隅まで連れて行き、その旨を冷静関連を除いて雄二に懇切丁寧に説明する。
「じゃあ何で名前で呼ばれてんだよ。オレが呼ばれるんなら真っ当な理由で分かるぞ。委員長、姉貴と知り合ってるからな。向坂くんじゃ間違わないだろうが、しっくりこねえかも知れない。けど、だ。オレは呼ばれず、大凡必要の無いお前だけだ」
 やはりここに引っ掛かりは来るわけで。雄二は貴明の進路を塞ぎ、答えるまで帰さんぞと言わんばかりだった。
 が、貴明にとって衆人環視とは違うものの、誰が聞き耳を立てているか分からないところで言えるネタでは無い。
 強情を張る貴明に先に限界が来たのは雄二だった。
「ま、いいさ。けどよ、委員長が名前で呼ぶ男子なんて、多分お前だけなんだから、そこんとこちゃんと分かっとけよ」
 貴明の後ろの自分の席に薄い鞄を置く。
「言われなくても、分かってるよ」
 貴明の無意識の呟きは、誰にも聞かれなかった。

 しかし雄二、そうやって真面目な顔だけしていれば女子が引っ掛からないと嘆く事もないだろうに。
「へくしっ」
 雄二のくしゃみも教室の喧騒に掻き消された。


 最大の休憩時間、昼休み。昼食を食べ、腹も膨れこなれた終了五分前。貴明は廊下の窓から早くも散り始めた桜の花弁を眺め遣る。この調子では四月中には若葉に変わるだろう。
 通常入学には、間に合わなかったんだよな。
 散り行く桜に、健康なら後輩に当たる筈だった少女を思い浮かべる。
 そんな意味のない想像を意識の深層でしていた貴明を、郁乃と同質の髪の色を見つける。いや、通常の生徒に比べれば色素は薄いが郁乃よりは濃い。愛佳だった。
 女子生徒を相手にお互い頭を下げ合っている。
「またお礼と謙遜のコメツキバッタか?」
 からかいを込めて二人の間に割って入る。
「たかあきくん?」
 愛佳は今気付いたらしく、眼を大きくして中途半端な頭の高さのまま貴明を見上げた。相手の女子生徒も、介入者に対し、軽い驚きを表情に乗せていた。
「あ、それでは失礼します。返す返す、ありがとうございました、小牧さん」
 これを機会とばかりに、女子生徒は最後に頭を下げて、応酬を切り上げて踊り場に消えていった。
「今回は何やったの?」
「今回はラクロス部が―――」
 貴明は三月にも聞いていた意外な愛佳の人脈と、そのパイプを上手く一本に通す掌握術を説明された。まあ、管轄外の仕事であったが。
 貴明は話を聞き終わって労いの言葉を掛けると、今度はこちらが昼食時、環を主に考案された案を愛佳へ提案しようとする。
「小牧、今日は見舞いに行くって言ってたよな。で、話したんだけどタマ姉が……どうしたんだ、小牧?」
 貴明が振った話題に対して愛佳の上機嫌だった顔がぷっくりと膨れた。
「名前…」
「ん?」
 愛佳の一単語に貴明は疑問の節を上げる。
「…名前で呼んでくれるって、昨日言ったのに」
「あ、あー」
 貴明は肯定の節と共に手を打つ。忘れていた訳ではないが、癖は抜けない。
(って言うか、俺って一応告白されてるんだよな…)
 寧ろ眼を逸らしていたのはこちらか。本当なら嬉しかったり恥ずかしかったりするのであろうが、不思議とそれはない。あるとすれば、言葉に出来ない罪悪感。
「……」
 愛佳が、タレ目でやってもちっとも怖くないジト目をする。いや、違うか。これは駄々っ子のおねだりの眼だ。プラス、上目遣い。導かれる答えは貴明撃沈。
 教室付近の出入りしか機能していないこの時間帯、貴明は気恥ずかしさの覚悟を決めて名前を呼んだ。
「愛佳」
 声にしてみて、貴明は首を捻りたくなった。違和感も、恥ずかしさも特に無い。
「はい、なんでしょう?」
 只、愛佳の機嫌は直ったらしい。貴明は引っ掛かりを一旦横に置く事にした。
「タマ姉の提案なんだけど、俺達が見舞いに行く日は棚の整理だけでも任せてくれないかって。ほら、先手打っておかないといけないし。図書委員の残存派の人も手伝ってくれるって」
 愛佳ははっと眼を伏せる。
「…ごめんなさい。あたしが引き込んだのに、そんな事まで考えさせちゃって」
 愛佳にとって見舞いに行く事を謝ることは出来ない。見舞いに行く事を減らすつもり位はあったかもしれないが、行かなくなるということは決してない。そして他の何に謝ろうと、見舞いについては謝らない。それは郁乃を足手纏いと言っているのと同義だから。
「折角の提案なんだから、遠慮なく受けたらどうだ?」
 魅力的な案だった。作業が発起人の自分の手を離れるのはやや寂しいと思えたが―――
「そうします。鍵は向坂くんに預けておいてくれますか?」
 ―――それ以上にあそこを大切に思ってくれる人がそんなにも沢山居るのが遠慮を押し退けて嬉しかった。
 五時間目の休み時間。愛佳は鞄から取り出した鍵を貴明に渡し、貴明は雄二に渡した。
「おっけ、確かに貰い受けた」
「冗談じゃなく無くしたりするなよ。愛佳の大切な物なんだから」
 貴明の零した固有名に、キュピーンと雄二の双眼が某獣幼女の様に光った。雄二の手が伸び、ガシッと貴明の肩に指が食い込む。
「確かに冗談じゃねえよなぁ。昨日まで苗字で呼び合ってた友達が名前で呼び合ってたら」
「あ」
「何でてめえはっ。このっ、このっ」
 雄二は言葉に表す訳には行かない不満を、貴明へのからかいと身体への攻撃で晴らす。
 このネタを元に、貴明は少ない休み時間を散々弄られて過ごしたのだった。






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