パタンと、郁乃は歴史の教科書を閉じた。リハビリ後に、姉が来るまで何でもいいから教科書を取って勉強しようと思ったらこれだった。正直要らない。何年に誰が何をしたかは暗唱できる。地理も似たような物だ。この二つは冗談抜きで覚えるだけの教科である。それを言えば理科も英語も、数学すらも公式を覚える教科ではあるが。その癖、英語と算数と漢字以外は専門にでも進む人間以外はまず使わない。いや、英語も学校で覚えるレベルの英語では役に立たないし、将来海外赴任される可能性がある会社でも入る人間か、街中で困っている英語が喋れる国の外国人を助けてあげようと思うお人よし以外は必要あるまい。学校は無能が無知に無用を詰め込むところ。そんなひねた考えを中学入学の時にはしていたっけ。
「ひねてるのはあんまり変わらないか」
 郁乃は気だるい思考に脱力して、教科書を片付けると同時にベッドにうつ伏せに倒れる。眠い。姉が来るかどうかは分からないがいっそこのまま眠ってしまおうか。
 考えてから、郁乃はのろのろと身を起こした。姉にはまだしもバカに見られる可能性があると思うと癪だった。この間は失態を重ねもしたし。
 そんな風にしていると、案の定扉がノックされた。このリズムは耳に馴染み切っている。
「どうぞ」
 郁乃は姉と、付いて来ているであろう男にも入室を促した。

 その日は何とはなく変だった。姉が平時より比較的素直であり、テレを隠しながら河野貴明の事を「たかあきくん」と呼んでいるのだ。一方、たかあき君の方も不思議なほど冷静に、極自然に小牧愛佳の事を愛佳と呼んでいる。
 はて、これはどうした事かと思う前に、愛佳の気持ちの想像が付いている郁乃は納得がいった。大方どちらからかは知らないが、告白でもして上手くいったのだろう。
 よかったよかった―――
 心の中だけで手を叩きながら呆れた様に送ったその響きが、妙に空々しい事に郁乃は気付いている。けれど、これが望んだ結末である。嘆く事は無い。ない。
 郁乃が強請って、愛佳が剥きそのままでは食べにくいだろうからと切ってくれた林檎が貴明の持つ紙皿に載せられていく。
「ほら」
 愛佳が全て切り終わると、貴明が爪楊枝を添えて郁乃へと差し出した。貴明が郁乃に許可を求めたが許されず、強硬手段に出て彼女に怒られながら、愛佳には苦笑されながら林檎を食べたのもご愛嬌。
「ん」
 一切れ減ったが熟れた林檎が並んでいる。受け渡しの際、貴明に郁乃の指が触れて―――皿が傾き、林檎が掛け布団と言わずリノリウムの床にも落ちた。
「ちょっ、どうしたの?」
「わ、悪い」
 郁乃と貴明の声は同時だった。郁乃は指が接触した瞬間突然手を引いた貴明に、貴明は引いてしまった事に驚きつつ、折角の林檎を台無しにしてしまった事に対しての声だった。
「えっと、たかあきくんは布巾で床を拭いてて。あたしはシーツを代えて、出してくるから」
 指示を飛ばす愛佳に貴明は素早く従う。布巾の場所もいつの間にか覚えてしまっていた。
「別にこれ位なら洗わなくても」
「ダメ、アリが来ちゃう」
「アリが来るような衛生じゃ病室の意味ないよ…」
 抵抗しつつも郁乃は愛不承不承佳に従った。杖を持って、愛佳がシーツを代えるまで椅子に座って待つ。取替えは手馴れたもので、十秒で終わった。ベッドに戻り、掛け布団に下半身を包んで上半身を起こす、いつものスタイルが出来上がった。
「それじゃあ行って来るね。戻ったらまた林檎剥いてあげる」
 小柄な方のシーツを抱え、愛佳はランドリーに向かった。
 後には気不味い二人が残る。愛佳は単に悪い偶然が重なっただけに見えたかもしれないが、さっきのは明らかに貴明の反応、反射の所為だ。当事者は元より、被害者もよく分かる。
「何であんな反応したの?」
「…俺が訊きたいよ。勝手に動いたんだから」
 貴明の顔は当惑顔だった。本当に分かってないらしい。
 郁乃は普段よりも濃く憮然顔を意識的に作る。
「友達の友達や、友達の姉妹に女の子を感じるのはまだしも、彼女の妹に感じるなんてバカじゃない? それとも猿?」
 貴明は郁乃の冷言に眼を瞬かせている。
 郁乃は、もしかして猿の例えは一般的ではないのだろうかと深慮を巡らせた。猿以外に、特に思いつかない。というか、何で自分はショックも冷め遣らぬ内にこんな事を考えているのか。案外好きでも何でもなかったんじゃないかなと髪を弄った。
貴明の方も、漸く忘我から帰ったのか怪訝そうに訊ねた。
「彼女って、誰が、誰の?」
 ――――は?
 郁乃はその問いに数秒、頭の中が真っ白になった。それだけ衝撃が大きい。随分捻くれ精神的に強くなったつもりだったが、それでも精神から不調を起こさなかったのが不思議なぐらいだった。
「ふざけてるの? 言っていい冗談と悪い冗談があるわよ…」
 郁乃の視線は矢を番えた弓を向けられるより尚剣呑に貴明を射った。
 しかしそんな眼で睨まれようと、貴明に彼女はいない。彼女は――
「あ…」
 貴明は余りにも自然で不自然な自分の対応で忘れていたが、愛佳に告白されていたのを思い出した。勘がいい郁乃の事である。貴明がまるで気づいていなかった愛佳の気持ちを察していたのかも知れない。名前で呼び合っていたりしたら、告白して付き合い始めたと勘違いするかも知れない。
「あの、俺、誰とも付き合ってないよ」
 郁乃はまたしても、眼を丸くすることになった。二秒ほどで次の句を絞り出す。
「…名前で呼び合ってるのは」
「そう、頼まれたから」
 本当はその時に告白されたのだけど、それは言わなかった。
「本当にそれだけ?」
 郁乃の勘は鋭い。貴明の身に追及の手が迫る。
「それだけだ」
 貴明も、赤の他人ならば兎も角愛佳の名誉も守る為に黙り通す。
 郁乃はあっさりと追及を諦めた。貴明の言い分に納得したわけではなく、他にも何か言った事を確信しているからだ。何も真実を言わせなくとも、相手がそういう態度で来るのならやりようはある。
「男が苦手な姉が、名前で呼び合うよう頼んだのに、何の意味もないなんて、本気で思ってるんじゃないでしょうね?」
「…雄二にも言われたよ」
 そして違う事を誰よりも知っている。
「それで、あんたの気持ちは?」
 心に食い込んだ。
「言わなくてもいいけどね。あんた、姉を尾行するぐらい好きなんだし」
 止めろ、黙れ。
「あんたなんかに姉を上げるのは癪だけど、さっさと答えてやりなさい。一寸、勘違いって可能性はあるけど」
 五月蝿い。五月蝿い!
「だからって姉が嫌がるようなことをしたら」
「黙れっ!」
 病室内に貴明の短い恫喝が響いた。
 ピリピリと耳の奥で蟠る空気の刺激に、郁乃は思わず言葉を切り、顔を顰める。
 病室内で常識知らずに大声を発した貴明は、顔を右手で覆い、荒れた心を落ち着かせようとしていた。しっかり左手で郁乃に黙るよう仕草しているのが抜け目無く間抜けだ。
「あー、あ。大声出して悪かった。けど、罵るのは俺の話を聞いてからにしてくれ。今分かったばかりで冷静に言えるかは分からないが」
 貴明は漸く昨日愛佳と分かれてからの違和感に気付いた。告白されたのに、嬉しさより困ったような感情。不自然に自然に振舞える自分。答えは郁乃が口にしてくれた。
 念入りに深呼吸までして、貴明は郁乃と向き合う。
 言葉に推敲を重ね、紡いだものは陳腐でも精一杯なものだった。
「俺はお前のことが好き、らしい。多分、恐らく、きっと」
 貴明の告白に、ドアの開く音が重なった。






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