その日の愛佳はとても上機嫌だった。昨日、貴明に心を伝える事が出来て、そういった下心ありでも今までと同じ風に付き合ってくれる彼が嬉しかった。
 名前で呼び合うことも許してくれた。まだ恥ずかしいけれど心の中があたたかくなった。
 今の自分はそれだけで満足だった。勿論、恋人同士になれれば言う事はないのだけど、この先貴明が誰かを選んでも祝福出来る自信があった。
「黙れっ!」
 廊下まで聞こえる貴明の怒声に、愛佳は身体を震わせた。貴明のこんな声を、彼女は初めて聞いた。
 郁乃と何か口論になったのだろうか。林檎ぐらいでこんな声を出す喧嘩になるとは思わないから、何か他の事が原因だろうか。
 原因次第では下手に止めない方がいいかもしれない。抑圧はよくないというし。
 愛佳は静けさが戻った廊下で扉中と外が繋がる隙間だけを、極力静かに音を立てない様に開けた。
「俺はお前のことが好き、らしい。多分、恐らく、きっと」
 支えを失ったドアが、鈍い音を立てた。
 ドアの開く音に、貴明と郁乃二人の視線が動いた。
「お姉、ちゃん…」
「愛佳…」
 向けられた二人の驚愕の眼の先で、愛佳は肩を震わせ、顔色を青褪めさせていた。
「あ、ご、ごめんなさい。聞く、つもりじゃ」
 自覚出来るぐらいに、恐らく二人よりも強いショックを受けた自分の声。必死で表情を取り繕おうと、泣き顔に歪みそうな顔を無理して笑顔にしようとする。平時の表情まで戻すのが限界だった。
「あたし、たかあきくんの気持ちも知らないで、迷惑、だったよね」
 それも自らの声に崩れる。貼り付けた表情のまま頬を伝う雫。
「ごめんなさいっ! あたしっ、先に帰るねっ」
 愛佳に出来る事は、そこから逃げ出す事だけだった。
「お姉ちゃん待ってっ!」
 届かぬ姉に手を伸ばした郁乃は、バランスを崩してベッドを頭から落ちそうになる。その小さな身体を、貴明が受け止めた。
「何してるのっ。早くお姉ちゃん追って!」
 助けられた郁乃の口から出たのは貴明への叱咤。自分の足では追いつけないし、仮に追いついた所で何も出来ない。郁乃は原因を作った貴明に縋るしかないのだ。
「……分かった、絶対に病室を出るんじゃないぞ」
 襟首を掴み見上げる郁乃に、貴明は彼女をベッドに戻して駆け出した。

 愛佳を追って病室を飛び出した貴明は、エレベータを待つ時間も惜しく、階段を三段飛ばしで激走した。幸い転ぶ事も巡回している看護士や医師とも鉢合う事も無く、一階まで降りる事が出来た。
 待合と言わずホール全体を見回す。自動ドアの向こう側に見慣れた後姿を発見した。彼女は駐車場を通り、鈍い足取りで門へと歩いている。
 貴明も自動ドアを潜り、外に出た。
 呼び止めると逆に警戒されそうで声を出さなかったが、全力疾走の足音に愛佳の方が先に気付いた。
「来ないで、たかあきくん…」
 掠れて弱々しい愛佳の拒絶は、何かに妨害される事も無く貴明の耳朶へ入り込んだ。貴明は歩みを止めて呼び掛ける。
「愛佳、あいつが心配してる」
「うん、ごめんね。明日ちゃんと謝る」
 振り返らないのは顔を見たくないからじゃなくて。
「今、きっと酷い顔してるから。明日になったら、きっと大丈夫だから」
 こんな自分は見せたくない。郁乃に対しては、頼れるおねえちゃんでいたい。
 貴明がそんな深層まで理解出来ることは無い。けれど、今一つだけ言わなければいけないことがある。
「愛佳、俺はお前の恋人にはなれない」
 昨日、出来なかった返事。確かに伝えた。伝わった。
「うん。ちゃんと振ってくれて、ありがとう」
 過去のものにしないで、自分を見てくれて。
 愛佳の初めての告白は初めての失恋で終わった。だけど、初恋は切ないだけでなく、仄かに甘かった。
 コンクリートを擦って、貴明は踵を返す。二人はお互い背中合わせで、違う歩調で歩みを再開した。

 コンコン
 最近聞く事のある聞き慣れていないリズムのノック。
「どうぞ」
 幾許かの期待を込めた郁乃の声は一秒後に四散した。
 帰って来たのは貴明一人。姉の姿はない。
「何やってるのよ…」
「ごめん」
 言いながら、貴明は丸椅子に腰を下ろす。
「愛佳、気持ちの整理付けたら明日謝りに来るって」
 追いかけた成果の一つの愛佳の約束も虚しく聞こえた。
「…何で、あたしなの? あたしなんかより姉の方がずっとかわいいし、外でだって遊べるし」
「訊かれたって、こっちもいつ好きになったのか分からないよ。ああ、後、手術してリハビリしたら学校通えるようになる奴が体質云々言うな。見通し立ってない人に謝れ」
 貴明の叱責にも、郁乃は「そうね」と返すだけだ。
 雰囲気に重さがあるならば、圧死するであろう沈黙が流れる。
「また、お姉ちゃんから奪っちゃった」
 息苦しい空気の中、生意気さも捻くれも消えた、十五歳相応、或いは、それ以下の瞳で郁乃は語り出す。
「あたしね、生まれただけでお姉ちゃんから両親を奪っちゃった。お父さんもお母さんもあたしに掛かりっきりで。誕生パーティーとかで、お姉ちゃん、本当に欲しいものって貰った事ないと思う」
 それは貴明に、貴明だけに初めて見せる郁乃の弱さだった。
「分かるわけないよね。只でさえ子どもの欲しい物って大人には分からないのに、お姉ちゃんはおねだりもしない。けどお姉ちゃんは、バカみたいに優しいから、あたしのことを思うと、あたしの事で疲れてる両親を思うと、何も言えないの。ううん、言わないの。大して欲しくもない用意されたプレゼントを、笑って受け取ってる」
「郁乃、もういい」
 貴明が郁乃の、傷が開く前に封印していたであろう愛佳への負い目の話をやめるよう言う。郁乃は無視した。
「あんたを見た時、羨ましかった。あんたは姉を支えてた。あたしが、健康だったらしたかったことをやってた。だから最初は腹が立ったけど、あんたならもうしょうがないと思った。なのに…っ」
 冷静だった声は段々と強く。
「何であんたまでっ。あたし、お姉ちゃんに何もしてあげてない。お姉ちゃんから何もかも奪ってるだけっ。その上あんたまで奪って…」
「もういいから」
 貴明は席を立ち、言葉で止まりそうにない郁乃を強引に抱きすくめた。貴明の鼻先を掠める郁乃の髪は思ったより消毒液臭くなく、女の子の匂いがした。
「お前の両親に関しては、俺は何も言えない」
 実際に、郁乃のような子どもが出来れば自分だって掛かりきりになるだろう。愛佳を見なかった両親の所為にするのは簡単だけど、そんなもの郁乃には慰めにすらならない。
「けど、俺は愛佳からお前が奪ったんじゃない」
 今、こんなにも感情を昂らせているのに泣かない郁乃。その心には尊敬すら抱く。
「俺が郁乃を奪いたいんだ」
 許諾も得ずに、貴明はその強い少女に口付けた。
 貴明は郁乃が地上に落ちる前の宿木にはならない。郁乃が全ての感情を、時には涙を隠す壁すら壊せる、そんな恋人になりたい。
 郁乃は瞳を閉じ、唇を奪われるままにしていた。奪う、奪わないじゃない。郁乃は貴明に告白されて、喜んでいる浅ましさこそが痛かった。けれど何と現金な事か、こうして貴明に奪われてしまえば、もう誰にも譲りたくなくなってしまった。自分にとって世界一の姉にだって。
 只重ねるだけの子どもの様なキスを、十秒か二十秒過ぎてやっと貴明は郁乃の唇を放した。
「あたしがあんたのこと好きじゃなかったら、犯罪よね」
「ごめん。…え、じゃあお前――」
 好きな女の子からの告白に直ぐに反応出来ない大馬鹿者の口を、郁乃は塞いでやった。
 口付けしながら、そういえばさっきは貴明に初めてまともに名前で呼ばれた。自分は初めてはどんな風にやろうか、郁乃はそんな事を考えられるほどに幸せだった。

 キスをした後、特に何かを話す事も無く二人とも座っていた。愛佳の件はまだ不安ではあるが、居心地の悪いものではなかった。
「じゃあ、そろそろ」
 貴明が腰を上げる。いつもより長居したが、そろそろ帰らなければ。鞄を持ち、ドアへ一歩一歩噛締めながら歩く。
「また明日、たかあき」
 ノブに手を掛けた貴明に、悪戯っぽい声質が届く。
 自己防衛の生意気さに、ほんの少し貴明に頼る場所を空けた郁乃がいた。
「また明日、郁乃」
 郁乃は眼を伏せ穏やかな表情を浮かべた。


 明けた朝。貴明は昨日に続いて寝不足だった。幸福感のまま寝れればいいが、愛佳の事を考えるとそこまで気楽にはなれない。
「二日続けて何やってんだ、お前は?」
「色々あってな」
 欠伸を手で押さえて漏れないように流す。雄二の下世話な勘繰りの先手を打っておく必要もあるか。
「俺、さ」
 貴明の幼馴染全員に向けた言葉に、目論み通り視線が集まる。
「郁乃と付き合う事になったから」
 幼馴染三人は突然の告白に、眼を見開いて驚いた。
 逸早く立ち直ったのは雄二だった。額に手を当てながら言い切れない感情を纏めようとしている様だ。愛佳の気持ちを推察している彼には複雑だろう。
「まあ、お前が選んだんならオレは何も言わない。けど…」
 雄二は言葉を選びながら、貴明の両肩を掴み眼を見詰める。
「昨日は入院患者相手に頑張ったのか?」
 正気に戻った環のアイアンクローより先に、貴明の右アッパーが雄二の顎を抉った。

 自分の教室のある階層の人通りのある廊下で、愛佳とばったりかち合った。
「おはようたかあきくん、向坂くん」
 避ける事を考えた貴明だったが、愛佳の方から声を掛けてきた。
「おはよう、愛佳」
「うぃっす。いいんちょ、鍵」
 ポケットから雄二が鍵を取り出そうとするが、愛佳は仕草と共に押し留めた。
「ううん。今日も病院だから。向坂くん持ってて。それじゃ、あたしまだ用事あるから」
 言い残して去って行く愛佳は、昨日の影響をまるで感じさせなかった。

 恙無く授業も終わり、病院への道筋。話すこともない、静かな道程だった。愛佳の自然な装いに貴明は振っておいて言うのもなんだが、失恋は一日や二日で振り切れるものなのだろうかと考える。自分はどうだろう? 記憶の底で澱になっている出来事は、最近まで影響を与えていた気がする。 
 考えている内に病院に着き、エレベーターから郁乃の病室前まで。
「どうぞ」
 ノックに答える郁乃の声に若干の強張りがあった。貴明を誰にも譲らないと決めても、愛佳は郁乃にとって世界で二番目に大好きな姉なのだ。虫がよいと言われようが、失いたくない。
「郁乃、調子はどう?」
「うん。問題ない」
 指先から何までまるで問題ない。強いて言えば寝不足であるが、朝寝と昼寝をしているので今は眠くない。
 見舞い組が丸椅子に、郁乃を挟んで座る。
 暫し語らう事も無い、病院の個室独特の静けさ。
「昨日はごめんね、郁乃」
 切り出したのは、愛佳からだった。
「お姉ちゃん」
「いきなり飛び出して、ビックリしちゃったよね」
 自分の大切な妹を、自分の大好きな人が好きだというのだ。祝福しなければならない。祝福は、笑顔で。
「これで早とちりだったら情けないんだけど、たかあきくんは、郁乃の事を恋人にしたい女の子として好きなんだよね?」
「ああ」
 確認の言葉。愛佳の心には自らの発音一つ毎に無数の刃が刺さっている。一日や二日で、彼女の傷はまだ癒えない。未練のある言い回しが何よりの証拠。
「郁乃はたかあきくんのこと、好き?」
 郁乃は昨夜考えていた。報告は姉を気遣う言い回しか、はっきり主張する言い回しか。
 選んだのは―――
「ええ。あたしはたかあきのことが好き。昨日付けで付き合ってる」
 気遣って、気遣い返されて上辺だけの関係になるぐらいなら、冷たく突き放して嫌われる可能性の方がいい。
 愛佳は郁乃を挟んだ対面にいる貴明の眼を、凛と見据える。愛佳はそのまま、ペコリと頭を下げた。
「たかあきくん、郁乃のこと、宜しくお願いします」
 愛佳のまだ悲しみを拭いきれていない祝福の言葉に、郁乃の胸に甘い痛みが広がった。
 郁乃が愛佳を世界で二番目に大好きな様に、愛佳も郁乃を世界で二番目に大好きなのだ。
 簡単に切れる絆ではない。同じ男性を好きになった事すらも、いつか絆の濃さに変わるだろう。
「ああ、頼まれたよ」
 貴明も認めてくれた愛佳に小さく頭を下げた。
「ありがとう、お姉ちゃん」
 三人の間に流れる空気はまだぎこちないものであったが、柔らかいぬくもりを持っていた。

「あ、でも郁乃」
 昨日結局剥けなかった林檎を今剥きながら、愛佳が思い出したように付け加える。
「もしたかあきくんに愛想が尽きるようなことがあったら言ってね。あたしが貰ってあげるから」
 貴明は背中を突き飛ばされたように前のめりに倒れる。紙皿と上の林檎は辛うじて死守した。
 郁乃も数瞬呆気に取られていたが、にやりと口端に笑みを載せた。
「そうね、その際には頼むけど。でも、たかあきを唆したらお姉ちゃんでも許さないから」
 姉妹で、貴明には穏やかではない笑い声が交わされた。






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